24時間耐久 26to50
030:命【いのち】
「やはり……」
オルセリートが熱を出した。近衛にまで発病者が出た以上、可能性は否めないと思っていたが、本当にそうだったことを確認してキリコは息をついた。
大病禍。
この国を襲い、増えた人間をあざ笑うかのように人口を減らしていく。前回の流行は10年ほど前だっただろうか。
こうなったらベルカが知り得たという治療法に頼るしかないと進言したのだが、オルセリートは頑として首を縦に振ろうとしなかった。
ベルカ自身の手紙や、鴉を含めた部下たちの調査結果を総合し、推測される治療のアウトラインも含め話をしたのにかかわらず、だ。
「いい……呼び戻したとして、ベルカにまでうつったらどうする。おまえもあまり……僕に近づくな」
だが冷静に考えるならば、ベルカは今現在、カミーノにいるのだ。もしかかるとしたら既にかかっていても全くおかしくない。
ベルカ含め周囲の人物がみな感染していないならば、それはベルカが死神を退ける術を手に入れたからだ、と結論づけるのが自然だと、キリコにはそう思えた。
それに、助かるかもしれないのにオルセリートをみすみす見殺しにするような真似は出来ない。
再三にわたる説得も功を奏さず、オルセリートはまた同じ言葉を繰り返した。
「ただの……偶然だ。ベルカは利用されているだけ、だ……。大病禍に治療法など……」
呼吸も普段より弱々しい。
「しかしながらオルセリート殿下、殿下にみすみすお命を落とされるようでは……」
オルセリートも相当に苦しいはずだ。それでも首を縦に振らない。いい加減にキリコも焦れた。
「──お言葉ですがオルセリート殿下。あなたはベルカ王子の何をご存知だと言うのでしょうか」
自身の命すらかかっているというのに、そこで意地を張ってどうするというのか。
言葉が過ぎるのはわかっていた。しかし、どうしても、黙っていることは出来なかった。
******
031:羽根【はね】
魚と小鳥が同義であるならば、水を失った魚が死ぬように、空を失った鳥も死ぬのだろう。
猛禽類はまず獲物の尾羽を狙うのだと言う。尾羽を散らされ地に墜ちた鳥は、もう抵抗はおろか、逃げる術さえ残されていない。ただ死して食われるのを待つのみだ。
地を這うのみで空を飛ぶことを知らなかったベルカという鳥は、リンナに出会い自分の翼に気付かされた。
失ったと思った尾羽が実は未だ存在していて、しかし現在脅かされているという現実を知った。
空を翔ることを知らない鳥は、墜ちる痛みも知らずにすむ。
しかし、天高く飛ぶ鳥が墜ちれば、それだけでもう無事では済まない。たとえ墜ちて命が助かったとしても、自由を知った鳥は、翼を広げることも出来ない狭い檻の中に押し込められていてはストレスで死んでしまうという。
ベルカの考えが、新月には理解し難かった。
ホクレアは一族のひとりが敵方に捕らえられたら、必ず助けに行く。たとえそれによって命が脅かされることがあっても、だ。
それが馬鹿だと『人間』は笑うかもしれない。けれど。
生きて捕らえられていると、わかっていて見殺しにすることは、自分の心を殺してしまうのと同じことだ。
そうして少しずつ少しずつ、心が死んで石になっていく。胸の中に石が溜まり続ければ、重すぎる心だったものを抱いて残りの人生を歩むことはあまりにつらいことだ。
「行かないのか? あの男のところへ…」
今まさにそうなりつつあるベルカを見殺しにすることは、やはり新月には出来なかった。
******
043:新世界【しんせかい】
滝を下り、トライ=カンティーナ消滅からこっち、念願だった陸地を踏んだ。
陸酔いというやつで、船を下りてからしばらくの間はふらついたが、今はすっかりこの緑生い茂る新天地にも慣れた。
トライ=カンティーナのような便利さはなかったが、もとよりそれはライツのような犯罪者には無縁なものだ。むしろ、その便利さが貧民層を街から締め出すといっても良い。
そんな、食べ物ひとつ盗み出すのも難しい元の世界よりも、果物が潤沢で網さえあれば食べられる魚も簡単に穫れるこの土地の方が、遙かに肌に合うと、そう感じられた。
ただ、先住民族が気に入らなかった。
褐色の肌に白い髪、赤い目。それがその種族の目に見える特徴だった。
昔話で、光の乙女を捕らえていたという魔物と同じ特徴。
そして、ライツ自身が子供の頃、差別を受けていた、特徴。そうでない層にとっては単なる御伽話であるものでも、ある層には差別の道具として使われることがあるのだ。
ライツの肌は黒くはないが、今は金色をしている髪は子供の頃は銀といっていいほどのプラチナブロンドで、そして目は珍しい赤い色をしていた。
もとより貧困層であったが、母は魔物と通じ、魔物の子を生んだとして街を追われ、父はそんな母をあっさりと捨てた。
「あいつらは──アモンテールだ!」
そう断じたのは、半ば八つ当たりもあったのかもしれない。
そういう特徴をもった種族が実在したことへの驚きと、実際に彼らが使う不思議なわざについてのおそれ。それから。彼らが存在しなければ、子供の頃に受けたそういった差別がなかったのではないだろうか、という仮定による、種族への理不尽な嫌悪。
成長し年を重ねるにつれ髪の色は濃くなり、薄茶に近い金髪になったが、心に負った傷は既に根を張り、ライツを荒ませていった。
理不尽に山の民──ホクレアを虐げ、奴隷として搾取することは、あるいはそんな伝承への復讐のつもりだったのかもしれなかった。
******
044:ソファー【そふぁー】
ふかっ。擬音にしたらそんな文字になりそうなくらいやわらかなクッションが体重を受け止めた。
今日宿を取った街はなかなかに大きく、つまりこの宿はいわゆる貴賓宿というやつだ。
ひとつひとつの調度品も凝った装飾があったり素材が上質だったりと、金がかかっている。
いま身を沈めたソファもそのひとつだ。
体重を預けたが最後、もうしばらく動く気力がなくなる。御者というのは意外と体力も神経も使うのだ。
何はともあれ腹ごしらえ、なベルカとオルハルディを送り出し、シャムロックがミュスカを寝室に運んだのを目で追い、向かいの席に腰を据えたところで唇の端を上げた。
「えー、それで?」
「ベルカの奴、すっかり真っ赤になってなー」
「じゃあ、ぼくが勝つのはもう決まりじゃない?」
「いや、まだわからねえさ。なんだかんだでベルカもオルハルディも奥手だろ」
笑いあいながら酒をあおる。
誰とでもすぐ打ち解けるたちで、知らぬ人と酒を酌み交わす夜は幾度も過ごしたが、こうして近しい人の恋愛模様を肴にして飲む酒はまた格別だ。
「そばで見てたら好きあってるのばればれなのにね。でも今夜あたり、キメてくるかもしれないよ!」
オディ=ジュストから王府に行くまでの道、ベルカとリンナがいつ気持ちを通じあわせるか……が、賭の対象だった。
当初は『落ちるか落ちないか』だったのだが、ふたりとも『落ちる』に賭たため、賭にならなかったのだ。
道のりからの概算日数で考えると、ここ3、4日あたりが前半・後半を分ける街ということになる。
エーコにはちょっとした勝算があった。
ふたりは間違いなく、屋台の出ている繁華街に向かっただろう。
そこには、この街で伝統的に行われているゲームに使うためのお菓子も売られているはずだ。
おそらくふたりはそのゲームに挑戦する。
そうすれば口接けは目の前だ。
いちど、たとえゲーム上の『事故』でも、いちど口接けてしまえば精神的な壁はぐっと低くなるだろう。そうすれば。
窓の外に思いを馳せ、エーコはまた1杯、酒をあおった。
******
046:SOS【えすおーえす】
ありとあらゆる手段で、それはもう昔ながらの狼煙やSOSに始まり、世界共通語、船舶統一救難信号、それから各国語で。救援信号をを何度送っても、応えはなかった。
消滅した本国からはなんの返答もないのはわかりきったことだったのだが、近隣諸国からもまったく応答がなかった。
シュロギスモス加速炉の暴走が、すべてを飲み込んでしまったというのだろうか。
今更ながら、恐ろしい力を手懐けて使っていたものだ。
狼煙を上げるために燃やすものも、もうない。陸地の見いえない膿の上、雲一つない空はどこまでも続き、水平線で海との境界線があることがわかるのみだ。
世界に空と海とこの船しかないような錯覚すら覚える。
並みの精神力の持ち主では、この海に沈むことを選びすらするかもしれない。
だが、誰もそうしなかったことに安堵し希望の光を見た。
そんな美しすぎる絶望的な凪の光景と、激しすぎる嵐。大きすぎる水棲生物。
それらと渡り合いながら、ロヴィスコは少しずつ、コーネリアと心を通じあわせてきた。
船長と船医という立場上、交際はひそやかに始まった。
ほかに誰もいない廊下、視線を絡ませるところから。
いつしか口接けを交わすようになり、更には──。
眠るコーネリアの髪をそっと撫でて額に口接けた。