あるいはこんなひととき
どうしても手が足りない、すぐそこまでだから、とリコリスにおつかいを頼まれた。籠いっぱいの林檎は、女の力では少しばかり難儀するだろう重さだ。
傷ももうさほど痛まないし、俺が来たんで良かったのかもな。などと思いながらベルカは、夕日の名残が残る帰路を急いだ。
サナの町には、多くの衛士がうろついている。
普段であれば頼もしく思うのかもしれないが、今は少しばかり事情が違う。
何せ、彼らが追っているのはベルカ自身だからだ。
今は女装しているし、このドレス姿で至近距離で相対したことも何度かあり、そのたびにやり過ごすことができた。
びくついた様子で歩くことこそ怪しい、と、頭では理解しているのだが、それを気取らせぬよう歩く事ができるほど、演技に長けてはいなかった。
「そこのお嬢さん、こんな道は若い娘が遅くに歩くところじゃありませんよ」
気さくな調子で声をかけられ、振り向くとやはり衛士。
まずい、ばれたか、と思ったが、眼前のふたりはどうもそういう様子ではなかった。
「あれ、どこかで……ああ、おまえ、リコリスの店に出入りしていたよな」
押し入られた晩を思い、ひやりとする。
「ん? ……もしかして、裏道で[客]に声をかけられるのを待ってたって訳か?」
「な、違っ……!」
だいたい自分は今、間違いなく早足で歩いていた。焦って否定するも、ふたりは下卑た笑みを向けた。
「非正規で客をとってるっていうんじゃあ、サナの治安を乱しているよなあ?」
「へ〜ぇ? そうだなあ。清楚そうなフリして何持ってるかわからないよな。よし、身体検査するからちょっと来い」
籠を持っていない方の手首を捕まれる。
冗談ではない。何をするつもりかはわかりたくもないが、ちょっと調べられたら正体がばれてしまう。
「抵抗するなんて怪しいな」
「だーよなー。身体は素直だって言うし、じっくり念入りに取り調べてみるか?」
ニヤついた衛士二人に壁際に追いつめられる。
振り払って逃げようにも、地の利がない。そもそも身を寄せている店がばれていてはどうしようもない。
応戦しようにもこちらは徒手、あちらはサナ衛士の制式の剣を持っている。しかも、ふたり。
「おい、お前たち、何をやっているんだ!」
必死に策を探していたところに、声をかける者があった。
『ぶ……分隊長!』
一瞬硬直した後に振り向いた、二人の声が揃った。
「アドナクにプーチンだな。おまえたち、担当はここじゃないだろう。またサボって色町にでも行こうとしていたのか」
分隊長と呼ばれた男が呆れたように言うと、ふたりは顔を見合わせた。
「まあいい、はやく持ち場に戻れ。もうこんな真似はするんじゃないぞ」
解放されたふたりが敬礼をして駆け出したのを見送り、ベルカは息をついた。
「あ、ありがとうございます……助かりました」
「すまない。みっともないところを見せてしまったね。こんな時だというのに、衛士である我々自身が治安を乱すような真似をするとは」
しかるべき処分をしなければ、とため息をつく。
「君は……あの時の!」
一瞬にして思い出した。こんな格好をする羽目になったあの晩、押し入ってきた衛士のことを。
「な、なまえは、その……」
まさか本名を名乗る訳にはいかない。とっさに偽名が出てこず口ごもる。
「ああ、すまない。……確かに、店の中で訊くべきだな」
何か勘違いされたようだが、まあ納得したならそれでいいかと愛想笑いだけしてみせる。
「街区のはずれの店だったな。送っていこう」
「ありがとうございます、でも、分隊長さまもお仕事がありますでしょう?」
「これも仕事だ。それに、この帰りに君が危ない目にあったりしたら、英雄王に顔向けが出来ん」
言葉とともに向けられた視線はまっすぐで、先ほどのふたりのような、変な気を起こすような様子は見受けられなかった。
***
疑う様子は無いように見えたが、内心はどうあるかわからない。横を歩く男の身のこなしは分隊長という肩書き通り、いやそれ以上のものが感じられた。万が一、自分が追われている少年だと知ったらたやすく捕らえられてしまうのではないかという恐怖もあり、ベルカはやや緊張しながら店への道を歩いた。
だが、それは杞憂だったようだ。
「では、ここで。本当にありがとうございました」
店の裏口の手前で微笑んでみせる。
結局、彼はベルカに指一本触れようとしなかった。
いや、ただ一度。ベルカが持っていた林檎の籠を引き受けると申し出た時だ。
いちどは固辞したのだが、彼はベルカの手からそれをひょいと取り上げたのだ。その際、わずかに手袋をした指が触れた。それだけ。
「このあたりは物騒だ。本当はもう少し見回りの衛士を増やしたいところなんだが、何しろ色町だ。店側・客側もあまりいい顔をしなくてな。難しいところだ」
眉を寄せ告げる。だから仕方ない、などと切り捨てたくないが、そうせざるを得ない。のだろう。仕事に、サナの町に、その住民に対する真摯な思いが伝わってくるようだった。
そして彼はあっさり立ち去った。
扉を閉めてから息をつく。
「あ……ぶねーところだった……」
波乱の路を辿った林檎の籠をリコリスに見せると、パイを焼くから全部皮をむくように、と指示された。
適当に皿を見繕い、剥いてはそこに乗せていく。最初こそ戸惑ったが、刃物にはそれなりに触れてきた。全部の指に創傷を作るより前には、包丁もまともに扱えるようになっていた。
単純作業の最中というものは、つい他のことを考えてしまいがちだ。殺されたヘクトルの事。ラーゲンたち。そして、オルセリート。じっとしているのが、辛くなってくる。
窓の外を見ると、いつしか月が高くまで上っていた。
あとがき的なアレ
うだうだするぶんたをずっと書いていた反動か、
しゃきっとキリっとかっこよく押せるぶんたに会いたくなり、
こんなことになりました。
うだうだするぶんたをずっと書いていた反動か、
しゃきっとキリっとかっこよく押せるぶんたに会いたくなり、
こんなことになりました。