それからこんなひととき



「へぇ、そんな事があったんだ」
 現場を見たかったなあ、と残念そうに呟くエーコに、冗談じゃないと毒づいた。
「他人事だよなー」
「まさか。面白そうなネタだって思っただけだよ」
 歌のね、とウィンクして見せた。


 翌日。言いつかった夕飯の支度を終え、エプロンと腕カバーを外し、洗濯籠に放り込んだところで瑞屋の戸を叩かれた。
「アンタに指名だよ、[マリーベル]」

 指名。
 一瞬言われた意味が解らず、首を捻る。
「……はぁ!?」
 男の自分がどう振る舞えと言うのか。
「まあ、まだ客をとるところまで仕込んでいないし無理矢理何かしようとしたら叩き出すって言ってあるから。さ、あんまりお待たせするんじゃないよ。行っておいで」


 向かうようにと言付けられた部屋に入ると、程なくその[客]がやってきた。
「改めて、キミの名前を聞かせてもらってもいいかい?」
「マ、マリーベル、です」
 どうしようこいつマジで来やがった。声が震えそうになるのをどうにか抑え、応えた。
 自分からは決して名乗らない。こちらから名前を問うこともしない。問われたら[マリーベル]という偽名を答える。
 言われたとおりの手順。
 
『抱けないのに正規料金払うなんて、イイ男じゃないか』
 リコリスのそんな言葉に、店ごと何かあるかもしれねーのに、どうするんだ……と、そう思ったが、どうやらこの分隊長にそういう意図は今のところ無さそうだ。無さそうに見える。
 が、自然と距離を取りがちになる。

「震えているのかい? ……顔色も悪いみたいだ」
 その距離を軽々と飛び越え、男はひょいとベルカの手首をとると頬に触れた。
 びくりと反応し、息を呑んだ。
 その様子に驚いたように男はすぐベルカを解放すると、首を傾げた。
「……っと……すまない。しかし……その、新鮮というか……」
 男に慣れていないような反応だ。という言葉に、慣れてたまるかと胸中でツッコみを入れる。

「え、ええ……ごめんなさい」
「キミはまだ客をとっていないという話だったけれど、もしかして……いや、すまない。あまり根掘り葉掘り訊くのはよくないな」
 娼館で春を売るに至るまでには、だいたいそうしなければならないだけの理由がある。自己完結し、男は続けた。
「なら、昨夜は随分怖い思いをさせてしまったね」
「ええ、あの時は……どうなってしまうかと思いましたわ。助けてくださって、本当にありがとう」
 おそらく意味合いはだいぶ違うが、本心である。


 男は、地方から出てきてサナ衛士となり、今では分隊長を勤めているのだと言った。
「ご両親には、長いこと会っておられないのですか?」
「長いこと、と言うほどでもないが……そうだな。もうすぐ1年というところか。分隊長になってからなかなかまとまった休みが取れなくてね」
「まあ、1年も……それはご心配でしょうね」
 そうだな、と頷いた。
「それでも、鳥を使えるようになったから随分連絡がしやすくなったよ。俺の田舎には代書屋が1軒しか無いから、足下を見られてね」
 そんな事を話しながら、男は随分楽しそうだった。
 最初はひたすら警戒していたベルカも、仕舞いには自然と笑顔が浮かぶようになり、その様子にさらに男の表情が緩む。
 じきに時間を知らせる鈴の音がした。
「もうそんなに経ったのか……。マリーベル、キミと話せて楽しかったよ。ありがとう」
 とんでもない、と首を振る。
「ほかの方みたいに愉しんでいただく事ができなくてごめんなさい。こちらこそ、ありがとうございました」

 見送ろうとすると、不意に抱きすくめられた。また来る。それ一言だけ告げてすぐに解放すると、更けつつある夜に溶けていった。


「へー。例の分隊長さん、また来たんだ。それ完全に惚れられてるんじゃない?」
 正規料金払って話して抱きしめるだけなんて、惚れてないと出来ないよねーなどと笑うエーコを睨みつける。
「ありえねー!」
「でも、また来るって言ってたんでしょう? これはむしろもう決まりだよねー」
 実に楽しそうに言うのは、やはり他人事だからか。

 たとえその目に見えている物が偽物だとしても、そんな風に好意を向けられたことなど無い。
 ありえねー。ありえねー。何度も否定しながらベッドに潜り込んだ。

 

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あとがき的なアレ
ちゃんとシリーズになったよかった。
しかしぶんたとマリーベルなのに相変わらずよく謝るなあ…