真綿の鎖



「衝立の陰に、オルセリート殿下がいらっしゃる」
 耳のうちに滑り込まされた言葉。
 膝の上で握った手にぎゅうと力を込める。
 甘噛みの歯は未だリンナの耳朶を解放する気は無いようだ。
 歯を立てられているだけならまだいい。
 時折、それが緩んだと思えば、歯列に沿うように舌先が、耳の裏を撫でて湿った感触を残す。
 くすぐるような動作に煽り立てられる。
 やけに響く水音は、衝立の向こうには本当に聞こえていないのだろうか。
 単に耳が近い音を大きく拾っているだけなのだろうか。

 ***

『ベルカ王子殿下のことを心より思慕しております。私の主人(あるじ)はベルカ王子殿下だけです』
 [真実を述べる薬]――欲しかったフランチェスコに関する新しい情報は何一つ手に入らず、また相変わらずどの質問にも齟齬はない。業を煮やしたキリコが、医師に止められつつもそれをほんの少し多めに使った際、苦しげな息の中リンナが繰り返すのはその一点のみだった。
 おそらくはこの男にとって、それこそが唯一絶対の真実であるのだろう。
 そう思うと、何故だろう。無性に籠絡してやりたくなった。この実直な男に対し、嗜虐心が疼いた。

 ふたつめの枕を訝しむ様子の男の前に姿を現すと、あからさまに警戒の視線を向けられた。
「そう案ずるな、オルハルディ」
 ベルカ王子殿下が心配か。
 問いに対する答えは確認するまでもなかった。
「また何か……私に、くすり、を」
 その色は警戒だけではない。ある種の脅えだ。
 おそらくは、ひとをあやつり人形にするための薬、への。先日の[真実を述べる薬]に続き、何か投与されるのではないかと気が気でないのだろう。
 唇を歪めてみせる。
「残念ながら、今からする事に薬を介在させるつもりはない」
 薬の熱に浮かされていた方が楽なこともあるだろうがね。その言葉は唇には乗せなかった。
 いつかしたように、右手に枷をはめ、ベッドに拘束した状態にする。尤も、そうせずとも逃げられるだけ、体力が回復しているようには思えなかったが。
 さらに、目隠しをして視覚を奪う。
 そうしておいて、左手首は片手で封じる。
 何度も何度も囁く。
「思い出せ、ベルカ王子殿下を抱いた時の事を」
 恥じらいと覚悟の表情を。
 高揚した心を。
 乱れたベルカ王子の嬌声を。
 汗ばんだ肌の感触を。
 果てたときのおまえの至福を。

 言葉で煽り、同時に指先を身に滑らせる。
 触れるか触れないかの微妙な感覚。
 くすぐると触るの間の感触。

 キリコの手管で煽り立てられ、快楽の波から必死に逃れようとする姿は一興を誘った。
 全身をくまなく舐り、撫で、触れる。
 そして自身は冷静さを欠かない。挿入は勿論、肌を晒すこともしない。
「私には男色の趣味はない。おまえと違ってな。オルハルディ」
 これが欲望によるものでも、ましてやコミュニケーションの一環でもなく、辱めの道具であることを意識させる。

 初めてキリコの手の中で果てたときには、目隠しを外すと絶望しきった表情で、薄く涙さえ浮かべていた。

 そうして何度も何度も辱め、想像のうちでベルカを犯させる。

 ***

 握った拳の指先が色を無くしている。
 もし爪が伸びていれば、皮膚を破っていたかもしれない。
 奥歯を噛みしめ、リンナはキリコの[攻撃]に耐えた。

 知らないうちであれば、気色の悪さはあっても十分耐えられただろう。だが。
 この状況下にあって、身のうちのどこかでは次の[攻撃]に期待してしまっている。
 その意識を振り払い、キリコの語る内容にだけ意識を集中させる。

「カミーノに……」
 通常であれば、王府から3、4日といったところだろうか。
「…なぜ…そのように落ち着いていられるオルハルディ。ベルカ王子は今なおカミーノにいらっしゃる。大病禍の渦巻く死の町にだ」
 フランチェスコ──エーコの口車。そうは思えなかった。
「……ッ ベルカ殿下は、ただ…騙され、利用しようとする者に唯々諾々と従うような、お方では……」
 それに[利用]が目的であれば、大病禍に抗する手だても無しに、どんな理由があって死の病が蔓延している街に連れるというのか。
 リンナは確信していた。
 間違いない。ベルカはその対抗策を手に入れたのだ。
 静かな喜びが身体を巡る。
 ひとを救う事ができた時、ベルカがどんな顔をして微笑むだろうかと想像する。
 きっとそう、少しはにかんだ、晴れやかな顔で──。

 ベルカ殿下──。

 キリコの指先が首筋を掠める感触で、現実に立ち返る。奥歯を噛みしめた。

「なにを考えている、オルハルディ」
 言え、と促され、考えを述べる。
 ただの贔屓目ととられないよう、出来うる限りその根拠を添えて。

(しかし、殿下はまだお若く、そしてお優しい──)
 ふと浮かんだ情景に、思わず頭をふる。
(私がこうして生きていることを知れば、思うようお動きになれなくなるかもしれない)
 耳朶が解放されていたのはいつの事なのか。先ほど指が掠めていったところを、今度は舌で舐られる。漏れそうになる吐息を押し殺す。
(殿下のお心の妨げになること…私は…それが最も、──怖ろしい)

 ***

 これだけの辱めと引け目を与えても、男は未だにベルカの名を口にする時、ひどくまっすぐな瞳をする。
 それはキリコを苛立たせた。
 まっすぐな存在に対する言いようもない憎悪。もしくは、嫉妬と言った方がいいのかもしれない。
 その眼差しを、矜持を、叩き壊したくなる。
 自身の存在により、その全幅の信頼を置き崇拝する対象を脅かしたとき、どんな顔をするのか。
 それを知るためには、薬など使ってしまってはつまらない。
 昏い欲望をたたえ、キリコはオルセリートとともに廊下を歩いていった。
 計画は既に動き出している。  

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あとがき的なアレ
本誌2月号を読んで、キリリン妄想が色々とこう…
1月号を読み返していて、ベッドに枕がふたつあることに衝撃を受けたりとか。
しかし28日が待ち遠しすぎますね