崩したい壁



「衛士さま……」
 手を取られゆるりと目を開け、そして瞠る。
「マリー、ベル……?」
 艶やかな黒髪が肩から流れ、月の光を浴びて頬がほんのりしろく輝いている。
 とられた手をぎゅうと胸に抱かれ、鼓動が跳ねた。
 思わず半身を起こし手を引くと、マリーベルは抵抗なくリンナの腕に収まった。
 夜着を通して伝わる体温が心地よい。
 早鐘は勢いを失うことを知らず、送り出された血流が全身を巡る。
 頬に手を添え、そっと髪を撫でる。
 髪の陰に隠れていたプリムシードがちゃり、と音を立てる。

 ──プリムシードが。

 意識に冷水を浴びせられた気がした。
 先ほどまでとは違ったニュアンスで心臓が早鐘を打つ。
「で……んか!? も、申し訳ございません!」
 寝ぼけてこのような不敬を働くなど言語道断、とでも言わんばかりにリンナは平謝りだった。
 そのあまりの勢いにベルカが制する。
「あ、いや、こっちこそごめん……」
 そもそも忍んできたの俺だし、と頭を掻く。
 そういえば。と、リンナが問いかけた。
「何故そのような格好をされているのですか?」
 宿ではだいたいの場合において、肌着の上衣にドロワーズという簡素な、そしてわかっていても目に毒な服装で居ることが多い。特に夜は。しかし、今のベルカは変装用のワンピースを着込んでいた。
 んー、と視線をさまよわせていたベルカだったが、やがて意を決したように口にした。
「おまえにキスしたかったから」

 あまりに直球の言葉をさらりと投げかけられて、一瞬、言葉を失う。
「このカッコなら、おまえも嫌がらないんじゃないかって思って」
 ぎし、と寝台が軋む。ベルカが膝立ちになり、リンナの顔をのぞき込んだ。
「だから……いいだろ?」
 頬に手を添えられ、切なげに眇められた瞳で見つめられる。
「殿……下……?」
 ベルカはゆるゆると首を振った。
「そうやって呼ばれるくらいなら、[マリーベル]の方がマシだ」
 リンナの言葉を待たずに口接ける。
 反論を聞きたくないと言うように。
 否定の言葉を怖れるように。
 戸惑いを隠しきれずにいたリンナであったが、やがて深まる口接けに徐々に応えはじめた。躊躇いがちに腕を[マリーベル]の背に回し、力を込める。

 しばしの間、互いの唇を貪り、舌を絡め合った。筋肉であり、粘膜であり、鋭敏な感覚器であるそこを擦り合わせ、味わう。
 静かだった部屋が、乱れた息遣いと湿った音で満たされる。
 ふ、と息をついて[マリーベル]はリンナの胸にぺたんと頭を乗せた。
「すげー速い。……俺さ、ハラ減ってたんだ」
 脈絡なく告げられ、疑問符が浮かぶ。
「エーコになんか食いモンねーかって訊いたら、おまえとキスしてこいって」
 確かにあんまりハラ減ったって感じじゃなくなった。そう言うと身を起こし、再びリンナの顔をのぞき込んだ。
「なんつーか……ごちそうさま?」
 笑みを向けられると、先ほどの疑問や戸惑いなどどうでも良くなってくる。
「殿下……いえ、マリーベル……」
 行動の是非を逡巡するようにぎこちなく、頬を撫で、指先でくちびるに触れた。わずかに細められた瞳に、胸が締め付けられる感覚をおぼえる。
 そのくちびるが動いた。
「おまえにそうやって呼ばれると……ちょっとだけ自由になれるような、気がするんだ」
 城で散々呼ばれてきた、上っ面だけの[殿下]よりも、おまえの射るような視線を向けられた[マリーベル]の方が。
 そう瞳を閉じてぽつりと呟かれ、返す言葉を失う。
 リンナに出来るのはただ、[マリーベル]をきつく抱きしめること、だけだった。

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あとがき的なアレ
積極的で「マリーベル」という呼称に肯定的なベルカ…
という電波がきたので。