ものがたり



「あにうえ……?」
 少年に手を引かれ、ベルカは気遣わしげに、逆光で見えないその顔を見ようとした。
「どこにいくの? おれ…こっちは…」
 十を数えたところ、といった年頃の少年──ヘクトルが向かっているのは、ノイ=ファヴリル城の、ベルカが普段居住しているよりも更に上層階。
 第三王子でありながら、庶子であるベルカには、居住区域より上層へ行くことが禁じられていた。好奇心もないではなかったが、幾度かこっそり侵入して探検をしたとき、罰されるのは自分だけではなかった。
「俺が一緒だから大丈夫さ」
 足を止め、ベルカの顔をのぞき込む。強すぎる太陽の光で陰になるが、今度はベルカにもヘクトルのその笑顔が認められた。
「俺と一緒に俺の宮に行くのに、ダメってことはないだろう」
 言い切られて安堵する。
「子供だからダメだって言うなら、俺が……えっと、ホゴシャになってやるから!」
 あれ? ホゴシャ? ジュウシャ……は、違うよな。と、覚えたての言葉を思い出しつつ使う。その様子に、ベルカも頬を緩めた。

 太陽宮には中庭がある。
 その庭にはささやかな植物の育成地と、隠れ家のような小屋と、大きな樹がある。
 まるでその身で子供を支えるのが生業であるかのような、登りやすい樹。ベルカがよじ登るのを手伝い、ヘクトルもまたそこに上った。
「おもしろい本を見つけたんだ」
 どこから取り出したのか、早速開いたそれには、見慣れた文字ではないものがずらりと並んでいた。
「あにうえ、これ字なの? おれよめないよ……」
 庶子とはいえ王族。一般的に使われている文字はもう難なく読めるのだが。
「これは、昔の文字なんだ。書庫の奥に隠してあった、今は使われていない字で書かれた秘密の物語。面白そうだろ?」
 読み聞かせてやるというヘクトルの言葉に、ベルカは顔を輝かせた。

 上代文字でのことばの綴りはヘクトルにとっても難解で、単語をとばしとばし読んだ。それでもおぼろげながらストーリーが浮かんでくる。
 飛ばした単語を推測し、文章をつなぎあわせ、ヘクトルはその本から物語を織りあげた。
 ベルカもじっと、兄が文字をなぞる指を見ていた。

 囚人と船団の物語。
 王府からは海は少々遠いが、海については母がたくさん話をしてくれた。
 母の故郷であるという島は、周囲が全部海で、つまり水に囲われていて、「船」に乗って別の場所へと行き来するのだと。
 母も乗ったことがあるという「船」が出てくる物語。
 山あり谷ありの冒険譚は、少年の心を少なからず沸き立たせた。
 不意に発生した出来事。団結して嵐に立ち向かい、巨大水棲動物と戦い、それらを食べて食いつなぐ。
 そして生き残るために協力しあった彼らはついに、滝の下に陸地を発見したのだった。めでたし、めでたし──。

 登場人物の[ライツ一世]という名には、ベルカも大いに覚えがあった。建国の主であり、いまも英雄王として称えられている。
 それを指摘すると、ヘクトルは笑顔で答えた。
「そう、これは建国の前の物語なんだ!」

 国が出来る前、アゼルプラードは船だった。いわば国土のない国であったのだという。それはベルカにとっては少し難しすぎる話題だった。
 この城も、城壁も無かった。想像もつかない。
 今住んでいるアゼルプラードは、いったい何だったのか?
 地を覆っていた闇とは、どういうものだったのか?

「────かもしれないね」
「えっ」
 囁くような小声で唇に乗せられた言葉は、不意に吹いた風にさらわれた。
「さあ、風も出てきたし、帰ろうか。久々におんぶしてやろうか」
「だいじょうぶだよっ、自分のへやまであるける!」
 まあまあ、と言って抱き上げられる。流石にいわゆる姫抱っこ状態は恥ずかしく、それなら背中のほうが、とおとなしく背負われることにした。

 それはちょうど見回りにきた兵士の目を誤魔化し、ベルカの心をまもるためのヘクトルのさりげなくささやかな配慮だった。


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あとがき的なアレ
2月2日は「にーにー」の日だと聞いて、あにうえ(12歳くらい)とベルカ(7歳くらい)のお話です!