光の扉
字なんてものは、自分とは関係ないものだと思っていた。生きていく上で必要性も感じなかった。けれど。
必要性などとは、別の次元の問題になったのだ。
『読みたい』その一心だった。
誰かに読み聞かせられるのではなく、自分で。
王なら字くらい読めねえとカッコつかないだろ。軽口めかして言いつつも、ライツは本気だった。一月もする頃には、たどたどしくも文字を読めるようになっていた。
それは、まさに日記だった。
ページを繰るごとに、ロヴィスコの遺した想いに触れるような気がした。
人に読まれることを想定していない、平易で素直な文章。それでいて字はまるで手本のように綺麗なのだ。
ぱらぱらとページを繰る。
この本がただの綴られた白紙から手記に姿を変えた最初の一文は、ロヴィスコがアゼルプラード号の船長としての任にあたるに際しての意気込みだった。
このページだけはやや文体が硬く、緊張感が伝わってくるようだった。
それからしばらくは、空の様子や日常の何でもないことが、一日あたり数行で記録されていっていた。
それが大きく様変わりしたのは、やはりあの日だった。
シュロギスモス加速炉の暴走により、トライ=カンティーナが消滅した日。ロヴィスコが、ライツが、アゼルプラードの乗客員みなが、故郷を失った日だ。
他のページとは異質で、何度も書いては消された跡が残っている。
囚人を解放したこと。これからはともに歩む仲間として見ていかなければ、という、これも意気込み。
そこから先は、押さえられた筆致からも徐々に精彩が溢れてくるようだった。
読み聞かせられるだけではわからない行間。
ためらうように書かれた文字。消された一文。
喜びを抑えきれない様子の、縛られたその形をやぶり、今にも踊り出しそうな字。
ページを繰ることで、ふたたびあの海を航海しているような気分に襲われた。
ライツと関係を結んだこと。コーネリアのこと。
航海日誌にはけして書かれなかっただろうことも、この手記には記録されていた。
ライツが瀕死の怪我を負った日。ステラ・マリスを託したこと。回復を祈ることば。
世界の果ての滝を下りた日のこと。
読み上げられ、他者の口を介して伝わった一文。
わずか1ヶ月足らずとは思えない、密度の高い日々の記録。
そして、最後のページ。
袂を分かち、ロヴィスコたちが船を離れ、この地へと降り立った日の日付とともに、こう記されていた。
それは日記ではなく、ごくプライベートなメッセージ。
『ライツ。おまえは学があると言っていたな。
字は読めただろうか。
おまえが読むのを期待して、敢えてこの日記は船に置いていくことにした。
トライ=カンティーナが消滅した日のことを覚えているか?
ともに生きるための場所を探す。
そのために協力し合おうと、誓いあった日を。
ホクレアもまた、我々と同じ人間だ。
彼らに学び、この新天地でともに暮らすことは、けして悪くない。
最初は抵抗があるかもしれないが、すぐに慣れる。
あちらも我々を受け入れてくれると言っている。
……だが、それも嫌だというならば、私が言いたいのはこれだけだ。
生きろ。生き延びろ』
ロヴィスコのサインで終わり、そこから先は、ただ白いページが続いているのみだった。
「バカな奴だ……」
他人の心配をしている場合か。
何度も何度も思ったこと。また繰り返す。
生きろ、なんてメッセージを残した相手に殺されるなんて、本物の馬鹿だ。
唇を歪め、嘲笑のかたちをとる。
熱い液体がぽたり、とページに落ち、誰が見ている訳でもないのに慌てて拭った。
いつの間にか視界が滲んでいることに、気付かなかった。
***
字を覚えてからこっち、何度繰り返し読んだかわからない
この手記を読み、ロヴィスコの内面に触れると同時に、自覚していなかった自分自身の思いに気付かされることとなった。
ロヴィスコを愛していた。
コーネリアへの想いと違い、こちらを認めるのには抵抗があったが、時間を経てそれも受け入れられるようになっていった。
そもそも以前滝の上に、船の上にいた頃のライツは、愛なんてものの存在自体を信じてはいなかった。
衝動と欲望と快楽の追求。
女に愛を語るのなんて、その為以外の何でもないと思っていた。
コーネリアに目を付けた当初も、好きだとか愛してるとか、そんな理由ではなかった。ただ女という性を持っているから惹かれたにすぎない。と、そう思っていた。
しかし、そうではなかった。
ロヴィスコを求めていた。
そしてロヴィスコも、ライツを受容していた。
だが、ロヴィスコはライツ以外の存在も須く受容していた。そして心はコーネリアと通じ合っていた。
ロヴィスコを犯し、侵し、自分だけのものにしたかった。
しかし、ロヴィスコを犯すことは数あれど、侵すことはついに出来なかった。その想像以上に深く広いキャパシティに、逆にライツ自身が飲み込まれてしまうのではないかという恐怖すら覚えた。
だから、ロヴィスコの時間を止めた。
そしてコーネリアからロヴィスコを奪い、その間隙に入ろうとした。 ロヴィスコに成り代わろうとでもするように。いや、ライツ自身が他の女では満足できなかった。コーネリアでなければならないと思った。
船の上で、ただ一度だけあったコーネリアとの交歓。それはライツの望んだかたちのものではなかったが、鮮烈な印象を与えられた。
いわばその一度で、コーネリアに惚れ直したのだ。
警戒心を剥き出しにしながらも、約束は果たすと言った彼女。ライツの四肢を拘束し、上に乗った彼女。
薄闇の中であったが、そのときの表情ははっきりと覚えている。主導権を握り思うさま腰を振り、喘ぎ声の一つも漏らさなかったが、その頬は紅潮していたのではないか。
勝ち気な彼女を犯し、表情を歪ませ、屈服させたいという欲望が別の思いに変化したのは、その瞬間だった。
[聖戦]のさなか、コーネリアを抵抗勢力から奪った。
王となった自身の后とするために。
本当は優しく抱きしめたかった。
コーネリアの笑顔が見たかった。
しかし、コーネリアはそれを受け入れようとはしなかった。暴れ、自分の舌をも噛み切らん勢いの彼女を無理矢理犯した。両手首をまとめ押さえつけ、空いた片手では首を絞めながら。
興奮した。衝動のままに情動のままに、犯した。
そしてコーネリアのこころは壊れてしまった。
正式に后にすると告げたときもその後も、反応というものをほとんど見せなかった。
こころを閉ざして鍵をかけてしまったのか、それとも、こころだけロヴィスコと同じ、空のどこかに行ってしまったのかもしれない。いのちと身体はそこにあったが、それだけだった。
そのうつろな瞳には、空を見るときだけ、わずかな光が宿った。
夜を過ごしてももう暴れることはなかったが、ライツのどんな言葉にも行動にも反応がなくなってしまった。
優しく抱きしめても。
甘く囁いても。
手酷い扱いをしても。
挑発するような言葉をかけても。
愛撫や情交にも、反応を示すのは身体だけだった。
あつい血の通った身体ながらも、まるで人形を抱いているかのようだった。うつろな瞳はライツを映すことはあっても、焦点を結ぶことはなかった。
後に身籠もり子を産んだが、自身の子であるその王子にさえも、ほとんど関心を寄せることはなかった。
ただ本能のまま、鶏が卵を抱くように育てたのみだった。
***
「おまえが空で輝き続けるなら、俺はこの地で生きていく。見ていろ、俺はこの地で神になってやる」
アゼルプラードの建国、そしてそれを発展させること。
おとぎ話をなぞる戯れ。だがそのいわば遊びを成功させること、ライツ個人の感情よりも国のことを重要視することは、ロヴィスコの[神の奇跡]を我がものとしたことの代償であり、一種の責任でもある。そう思っていた。
自らの手でロヴィスコを葬り、コーネリアのこころを壊してしまった。欲しかったものを自分で手の届かないところに追いやってしまった。それを悔いている時間があるならば、国の基盤づくりに意識を向ける。ライツは努めてそうしていた。
悔恨は意味を為さない。そんなことはよく知っている。そう、子供の頃から。生まれてきたことすら後悔した日もあった。
だから、前に進むしかないのだ。
ロヴィスコを殺した本人である自分が、ロヴィスコの遺志を継ぐ、などというのもおかしい話なのかもしれないが。
ステラ・マリス──航海の守り星。それはいつしか、ライツにとってロヴィスコの象徴そのものになっていた。
船の名を集落の、街の、ついには国の名と定めたのは、それに導いて欲しいという思いも多分にあった。
建国に当たり壁にぶつかったとき、悩んだとき、ライツはいつも3つの選択肢を想定していたのだった。
ひとつ、犯罪者であった「自分自身」ならば、どうするか。ひとつ、「英雄王ライツ一世」はどうするべきか。そして、「ロヴィスコ船長」ならばこうしただろう、という、こたえ。
どんな高波でも嵐でも、ロヴィスコならばきっとうまく導いてくれるだろうと、何故かそんな安心感があった。ともに過ごしたのがほんのわずかな時間だなどと信じられない程、ロヴィスコはすでにライツの胸中深くに浸食していた。
ステラ・マリスというのが実際に空に輝くどの星か、なんて知らなかった。
だからライツは、いつも天上にあって位置の揺るがない星──北極星を見上げては、ロヴィスコに想いを馳せた。
流れ移り変わりゆく星々の中で揺るがぬ存在。それこそがライツにとってのステラ・マリスであり、ロヴィスコそのものだったのだ。
治世にはまず治水から。漂着した場所よりも南方で暖かい、そして海からは遠いノイ=ファヴリルを王府と定めた。まず堤防を、次いで城壁を築いた。
選定の基準は単純だった。光枝鉱が、そして建築資材が手に入れやすい場所。かつ、大きな河が流れているところ。川縁には肥沃な大地が広がり、農作物がよく育つ。
トライ=カンティーナを含めた滝の上の諸国に比べ、文明の発達が緩やかなコンコロル、そしてホクレア。彼らは自然と共存していたが、自然を押さえつけ乗りこなすことはしていなかった。
滝の上では、自然の力はすっかり弱くなり、燃料もすっかり枯渇しシュロギスモス加速炉に頼りきった生活だったのだが、こちらは違った。
山には緑の木々が生い茂り、大雨が降れば河は洪水という牙をむき、一歩集落を出ればいつでも野生の獣が人々をねらう。
国を作るに当たり、まずライツが目指したのは、その国──[アゼルプラード]かつてロヴィスコが船長を務めた船の名をそのまま使った──のうちに住む者の安全の保証だった。
外より望まれる国。
コンコロルの取り込みは、アゼルプラードの国民を増やし国力を付けるための重要課題だった。
自分たちよりも親しみがあり、尊敬の念を持っていた存在を邪神の下僕の末裔だと、憎むべき、奴隷として使役し見下す相手だと意識をねじ曲げるのは容易ではなかった。
国内の民の安全の保障。ホクレア以上の、ある種の自然を調教するちからを見せる。今まで出来なかったことが成し得る。今まで誰もしてくれなかったことをこの指導者はしてくれる。そう思わせる。いわばアゼルプラード内の社会福祉は、意識の改革のためにも大いに役立った。
***
いつの日にか、──いや、暗記してしまうほど繰り返し読んだ手記に、その日付ははっきりと記されていた。あの日ロヴィスコに手渡されたステラ・マリスにそっと触れる。
おまえは今も空のどこかで、海を照らし輝いているのだろうか。
英雄王として名を馳せたライツも老年を迎え、墓所として選定したのは、サナ。
ノイ=ファヴリルよりもだいぶ北上したところ。山々のそびえる高台だ。すでにそこまでの街道は拓かれている。
自分はおそらく、ロヴィスコと並び輝くことは出来ないだろう。だからせめて、海の見える土地で眠りたい。ささやかな願いだった。
海の見える土地。かつてアゼルプラードが流れ着いた場所が、ロヴィスコをこの手に掛けた場所が、見える場所。
アゼルプラードという「船」は、十分に大きくなった。
もう、自分という「船長」を必要としない程度には。
おとぎ話の通りに設けた元老、そして円卓というシステムがあれば、王はただの飾りでも問題はない。順当に行けば自分とコーネリアの息子が後を継ぐことになろうが、たとえそうならなくても、船が沈むことはないだろう。
いつしかライツは心に決めていたのだった。手を離してもよいほどに国が確立したら、船団のいきさつを、このアゼルプラードという国の基盤を公表しようと。
執務室を離れる直前。最後にもう一度、ロヴィスコの手記を開いた。最後のページに並ぶ文字を指先でゆっくりとなぞる。字を覚えたての頃はそうしなければ読みとれなかったが、今は遠目に視界に入れるだけで十分意味がわかる。だが、この手記はいつも指でなぞりながら読む。
紙の端からゆっくりと、右から左へ。その感触を楽しむように。
生き延びろ。
その言葉の通り、癒されぬ渇きを抱えたままにも、生き延びてきた。
──幼かった頃は、犯罪に手を染めた頃は、こんな未来など想像もつかなかった。
流刑船に乗せられたときも、滝を下りたときも。もしかしたら、建国のさなかにさえも。
よもやこんなにも、民に支持される王になるなどと。
いや、こんな年まで生き長らえること、それ自体すらも。どこかで恨みを買った誰かに殺されるか、死刑になるか、野垂れ死ぬか。
いろいろなものを手に入れてきた。
通常では考えられないほどの、たくさんのものを。
いろいろなものを犠牲にしてきた。
普通の人生を送っていれば得られたかもしれない、たくさんのものを。
いや、そんなものは最初から無かったのかもしれない。 少なくとも、犯罪に手を染めてしまって以降、そんな人並みの幸せなんてものは望むべくもなかった。もっといえば、人並みの幸せを望めなかったからこそ、失うものが無かったからこそ、犯罪に手を染めたのだ。
もし人並みの幸せを手に入れ、犯罪に手を染めることがなければライツの存在はとうの昔に、トライ=カンティーナと一緒に消滅していたのだろう。
いや、遠い昔、囚人として流刑の船に乗せられるより以前は[ライツ一世]とは違う名前を持っていた。つまり、ライツという人間自体が存在しなかったことになるのだ。
思考実験のようなその考えに、薄く笑みを浮かべる。
そして、執務室の扉を開け、歩き出した。
あとがき的なアレ
建国記念日なので、建国物語を!
ということで書き始めたんですけどめでたくもなんともなくてほんと申し訳ない感じです
建国記念日なので、建国物語を!
ということで書き始めたんですけどめでたくもなんともなくてほんと申し訳ない感じです