たった一人の、大切な



「なんか美味そうな匂いしねえ?」
 いくつめかの街。そこは、まち全体が甘い香りに包まれていた。
 食べ物のにおいにはもれなく敏感に反応するベルカのみならず、先ほどまで馬車の揺れで眠そうにしていたミュスカも、シャムロックの膝の上でそわそわしだした。
「そうですね、すごく……甘い感じの」
 小窓から顔を出し馬車を停めてくれ、とエーコに声をかけると、この先しばらく大きい街はないから今夜はここに泊まる、という返事がきた。

「この街ではね、この一週間に限って平民にもチョコレートが許されているんだよ」
 宿に馬車を預け、荷物を運び込んでエーコが説明した。
 ベルカも知らなかったことだが、基本的にチョコレートというのは王族と一部貴族の口にしか入らないものらしい。
「ミュスカ姫も好きでしょ、チョコレート。みんな行っておいでよ」
「エーコ殿は行かれないのですか?」
 声だけかけ、出かける用意をするでもなく荷解きを始めたエーコにリンナが問うと、意味ありげな笑みを向けた。
「ぼく? ぼくは……せっかくだからちょっと歌いに行こうかと思って。ずっとまともに歌わずにいると、声も出なくなっちゃうしね」
 この格好だと歌いづらいから、着替えてから行くよと告げ、スーツケースの中を漁り始めた。
「ま、このまちが大きいっていってもノイ=ファヴリルやサナほどじゃねーし、歌ってたらわかるだろ。先行ってよーぜ!」
 すっかりチョコレートのことで頭がいっぱいのベルカがリンナの手を引いた。

「また後でね、おねえさま!」
 [マリーベル]の格好をしているときは、ミュスカの態度が若干やわらかい。おねえさま呼ばわりにややひきつった笑顔を向け、シャムロックの肩の上のミュスカに手を振った。
「ずいぶんあそこが気に入ったみてーだけど、おっさんも大変だな」
 しみじみ、という表現がぴったりすぎるベルカの言葉にリンナは噴き出しそうになるのをこらえた。
「ま……まあ、気を許せる相手がいるのは悪い傾向ではありませんし……」
 兄としてはその相手が自分でないことが複雑であろうか。そんな事まで思い至り、どう返答したものか考えあぐねていたリンナに、ベルカはひらりと手を振った。
「ああ、悩ませちまってたら悪い。そんな深い意味があるわけじゃねーんだ。それより行こーぜ!」
 チョコもいいけどハラ減ったよな、と早速屋台を物色する。串焼きの肉、海産物といったお馴染みの屋台のほかに、確かにチョコレートを売る店が出ていた。
 まずは一通り、腹に溜まるものの屋台を回り、腹を満たしてから今度はチョコレートの屋台の物色をはじめた。

 一つの屋台の店主はやたらとフレンドリーで、[マリーベル]が商品を覗き込むと、ふうん、と背後のリンナに視線をやり、言った。
「嬢ちゃん、そっちのおニイさんにプレゼントかい? サービスしとくよ!」
「えっいや俺、じゃない、私がいただきますけど……?」
 まちでの慣習を知らないベルカの本心だった。いつもどおり分けて食べる気ではあったが、殊更プレゼントなどというつもりはない。
 が、それをなにやら誤解したらしく、店主が意味ありげな視線を二人の間にさまよわせた。
「そう照れんね。ほら、おニイさんも何かいってやってよ」
「わ、私はそのような……」
 慌てて眼前で手を振る。その様子を[マリーベル]が訝しげに見ていた。

 結局半ば強引に売りつけられたチョコレートを携え、ふらふらとほかのチョコレートの屋台も覗いて歩いた。
「なあ、リンナ」
 はい、と応えたリンナに、先ほど感じた疑問を投げかける。
「さっきの店のヤツだけど……なんであんなに必死に売ろうとしてたんだ?」
 なんかおまえの様子もおかしかったし、と言うと、ぱちぱちと目を瞬き、そしてついと視線を逸らされた。
「リンナ?」
「ええと……そのですね」
 言い辛そうに、言葉尻を濁した。

「この一週間、このまちではですね……大切な人に、チョコレートを贈るという風習がありまして……私も存じなかったのですが、昨夜エーコ殿が宿で」
 黙っていて申し訳ございません、と頭を下げるリンナに顔を上げさせ、ベルカは頭を掻いた。
「あー……だからあのおっちゃん……」
 誤解してたのか、と呟く。
 それもそうだ。今ベルカはあくまで[マリーベル]の格好をしており、日中であればともかく、こうして夜に貴族の服装のリンナと共に屋台の間などを歩けば。
 デートにしか、見えない。のだろう。それは認めざるを得ない。

「……まあ」
 ぼそりと呟いた。
「おまえが……大切なのは間違いねーし」
 やる、と手にしていた袋をリンナに押しつけた。
「えっと、その、殿下……」
 焦った声に、なんだか妙に照れてしまう。
「ばっ……ヘンな意味じゃねえからな! 大切って言っただけだ!」
 くるりと背を向ける。ウィッグの黒髪がふわりと舞った。
「殿下、おそれながら」
 その正面に回り込み、リンナがベルカの前にひざまずいた。
「私にとって、殿下はなによりも大切な人です。こちらを受け取ってはいただけませんでしょうか」
 ベルカの、ほぼ押し売りされるかたちとなったものよりは小ぶりの袋。真剣な眼差しに打たれ、ベルカは差し出されたそれに手を伸べた。
「……いつの間に用意したんだよ」
「貝の串焼きを買った時です。隣にございましたので」
 言われてみればそうだったかもしれない。そのときは空腹が勝ち、チョコレートはあとでいいや、などと考えていた。

 ふたり、宿への道を辿っていると、どこからか歌声が聴こえてきた。
「この声…エーコだ」
 声のする方へ歩いていくと、ちょっとした広場に出た。
 そこにはやはり、歌うエーコと、人だかり。見れば若い女ばかりだ。めいめいに小さな袋を持ち、エーコの歌う甘く切ない旋律にうっとりと聴き入っている。
「おっ、ベルカ」
 どうやら眠ってしまった様子のミュスカを抱いたシャムロックが、ちょうど広場の反対側から歩いてきた。
「いやあ、たいしたもんだな」
 エーコに視線を向け、しみじみと言う。
「どういうことだ?」
 状況を把握し切れていないベルカが問い返すと、にやりと笑みを浮かべた。
「こりゃ今夜は宿に戻ってこないかもしれないってこった。さ、俺は戻ってベッドで寝るぞ。姫さんも寝ちまったし」
 ガキもさっさと宿に戻って寝ろ寝ろ、と笑うシャムロックに、いまいち納得がいかないまま、続く。
 リンナに渡したチョコレートも、宿で少し味見させてもらおう。そんな事を考えながら。

BACK





あとがき的なアレ
バレンタインなので!
チョコレートの出てくる話でも!
甘さ控えめ!