「権利と責任」のほんのりつづきっぽい雰囲気です。よろしければそちらを先に読まれることをお勧めします。

背中の傷



 最中は落としてあったあかりに火を入れると、下衣は身につけたものの上半身は裸であるリンナの肌に、未だ引かない汗が光っているのが見えた。
 ぐったりと動けなくなってしまったベルカの身体が、湯を絞った布で丁寧に拭き清められる。

 行為は自ら望んだことであるし、リンナもベルカを求めてくれた。昼間のとんでもない考えを、捨てる気になってくれた。
 痛みと余韻と、なんともいえない幸福感。そして。
(あー……俺)
 急にこみ上げてきた感情に堪えきれず、掛布を適当に引き寄せ、枕を掴んで顔を埋める。頬が顔が、耳が熱い。
「殿下?」
 何かお気に障りましたでしょうか、と、布を絞っていたリンナが慌てた声を上げる。
「いや、そういうんじゃねーけど、…うあ……」
(ほんとに、シちまったんだな……俺)
 時間をかけて解されたとはいえ、本来の用途と違う使い方をした部分は未だ、熱を持ってじんじんと痛む。
 行為に後悔はしていない。だが、今更恥ずかしくなってきた。
「痛みが酷くていらっしゃいますか?」
 効果のほどはわかりませんが、痛み止めの薬草をご用意致しましょうか。と言うリンナを制する。こんなところに、いったいどうやって使うというのだ。
 困ったような表情を見せたリンナだったが、逡巡の後、ふたたびベルカの身を清める動作に戻った。

 温かな布で首筋から背へ清拭を受ける。
 その手がある一点でぴたりと止まった。
「覚えていらっしゃいますか?」
 リンナがそっと、ベルカの矢傷の跡に触れる。どういう状態なのかベルカ自身には見えないが、もうすっかり痛むこともない。
「以前こうして、私の傷に口接けを下さった日のことを」
 枕に顔を埋めたまま頷いた。
「あの頃は……こうして私の想いが受け入れられるなどと、考えてもおりませんでした」
 こうして身を繋げる事はもちろん、情欲を持って触れることも、ベルカに疚しい視線を向けることも自らに禁じ、自然と高鳴ってしまう鼓動を抑える方法を真剣に考えもした。この方に対して抱いていい感情は、忠誠ただそれのみであると。
 しかし押さえつける努力は出来ても、切り捨てることは出来なかった。捨てたつもりで目をそらしていた感情の種は、リンナの胸のうちでひそかに芽を出し、根を張っていた。
 その種にとって、ベルカの言葉は水、ベルカの笑顔は肥料。そしてベルカの存在自体が日光だった。
 ベルカの側で仕える間、密かに繁らせた葉。長い冬の間、再びあいまみえることを信じて伸ばし、いつしかきつく絡んだ根。気がついたら、到底引き抜く事など出来ぬほどに育っていた。
 そして、けして応えられることはないと思っていた想いが実を結んだ。邪な存在であると思っていたそれに、ようやく恋愛感情という名を付けて、認めることが出来るようになった。

 ***

「私は、殿下の従者として不適格です」
「殿下に対して、不相応な……けして抱いてはならぬ感情をもっております」
「こんな想いを抱いた者をおそばに置かれる事は、殿下にとって得策とは到底思えません」
「誠に身勝手ながら、お暇をいただけませんでしょうか」
 
 思い切って告げた言葉。サナを出てすぐの頃、書いて以来の辞表。
 ベルカは『バカ野郎』と短く言って、その書簡を引き裂いた。
「言っただろ。俺の側を離れるのは……許さねえ」
「……申し訳ございません。いかなる罰でも、受ける覚悟です」
 永遠の忠誠を誓った相手に翻意したのだ。しかも、ごく個人的な、身勝手な理由で。むしろ処刑されるのが当然とも思われた。
「俺が……おまえをどんなに……!」
 キツネの洞窟で、ホクレア──当時は、アモンテール、という蔑称しか知らなかった──と、初めて対峙したとき、以上の感情の奔流。おとなしく聞き分ける事なんてできなかった。
 カッとなって告白した。

 ベルカの胸のうちにもまた、リンナが残していった種が芽を出していた。リンナを失い、刈り取られたその茎の下、根は確かに生きていた。静かに伸びて絡んだ根。こちらも到底引き抜くことなどできない。引き抜こうとすれば、その根で包まれた土壌の多くが持って行かれてしまうだろう。
 それが引き抜かれようとしたのだ。リンナ自身の手で。

 ベルカを傷つける事、に、過剰なまでのおそれを抱いている。
 いや、過剰だと思うのは、単にベルカの主観であり、本来従者というものはそうあるべきなのかもしれない。だが。
 ベルカにとって、リンナはただの従者ではない。もっと踏み込んで欲しかったし、踏み込みたくもあった。
 ベルカが王の子というなら、リンナだって誰かの大切な子供であり、孫であり、弟や兄かもしれない。かつての、同僚。今までリンナを支えてきた存在が大勢居るはずだ。

 知らないことを知りたい。知って欲しい。
 経験は乏しいが、ひとを好きになるというのは、そういうことではないのか?

 話があるから今夜寝室に来い、と言った。そして、半ば強引に想いを遂げた。
 リンナを失いたくなかった。軽率であると笑い、非難する者もあるかもしれないが、行為そのものに後悔はない。

 ***

 傷跡から手が離れ、代わりにやわらかく温かいものが触れた。おそらくは唇。
 最中のような情欲の籠もったキスではなく、触れるだけのやさしいくちづけを落とされた。まだリンナの名も知らなかったあの日、宿でベルカがしたような、くちづけ。

「私は……なんと愚かしいことをしようとしていたのでしょうか」
 ひととおりベルカの身体全体を拭き終わり、リンナがぽつりと呟いた。リンナの脳裏に蘇ったのは、太陽宮で目覚めた日、ミュスカにかけられた言葉だった。
 どうしてこの方から、離れようなどと思ったのだろう。
 一生をかけてこの方に付き従う。この方と一緒に生きてゆく。そう誓ったのではなかったか。
 獅子身中の虫と目していた。いつの間にか育っていた種──恋愛感情は邪なものでも、ましてや害悪などでもないと、身を以て教えてくれた、この愛しき主君に。

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あとがき的なアレ
千冬さんちのリンナに枕を投げつけたくなったり、
背中に口付けの逆Ver.を書きたくなったりした末の犯行です。