一翼



 家の没落。爵位の剥奪。
 少年には与り知らぬところで、彼にとっての大事件は起きていた。
 昨夜まで自室であった場所は屋敷、いや土地ごと没収され、少年のささやかな宝物も隠れ家も、家族もすべてなくしてしまった。
 父は処刑され、母も行方がわからない。姉はよくてどこかの女中、悪ければ娼館あたりに売られているのだろう。
 少年自身も、かつては自らよりも低い身分であったアディンのある町の長に、傭兵よりも安上がりな戦力である剣奴として引き取られた。

『これがお貴族さまの剣だってよ!』
『こんなもんで騎士候補生サマだったなんて、笑わせるぜ!』

 訓練と称し、傭兵や先輩の剣奴たちに散々に叩きのめされる日々であったが、少年の心は折れなかった。
 周囲が自分より強いなら、そのやり方に倣えばいい。
 膝を折り、教えを請えばいい。
 倣い習い、そして自身だけが持っているものと組み合わせる。
 もともと筋のよかった少年である。ただ叩き臥せられるだけの日々は、そう長くは続かなかった。
 型にはまった剣は、その型をよく知る者ならば、先を読むことが出来る。次の動作を読まれることは、剣を合わせる場面においてはまさしく致命的なものとなる。
 剣奴や傭兵のはっきりと体系化されていない、悪く言えば粗野な剣というのは次の行動を読みづらい。
 しかし、多くの場合はつなぎ合わせるステップが錬られていない。技と技の間に隙が出来がちだ。
 少年は、そこを衝いた。
 やがて[訓練]という名の暴力の洗礼は無くなっていったが、少年は鍛錬を欠かさなかった。


 けして長くはない自由な時間。少年はひとり、草原で剣を手に舞っていた。アディンの騎士の伝統的な舞いは、ただ美しさのみを追求するものではない。
 流麗な足さばきは、剣を振るうときのステップ。
 型を決めた次の瞬間の、木の葉が風に舞うような絶妙な動きは、容易に次の動作を予想させない。
 舞に使うしなやかでやわらかい筋肉は、ただ走り、剣を振り鍛えるだけでは手に入らない。
 ひとつの動作を行うための予備動作は、小さければ小さいほど相手にそれと悟らせずにすむ。ひとつめの動作がそのままふたつめの動作につながれば、その間の隙は最小のものとなる。
 アディンの舞いとは、音楽とリズムに乗せた、その呼吸の伝達そのものである。
 抜き身の短剣を携え、少年は唇に舞いの旋律を乗せた。歌詞など、あるかどうかすらも知らぬ。最後に騎士候補生として待ったのは既に年単位の昔だ。それでも、足のステップで身に染み込んでいるリズムを刻む。
 タン、タンと頭の中で響く音に合わせ、地面を蹴り、目の前の敵を想定して空を切る。
 現実から目を閉ざすかのように、少年は舞い続けた。

 頭の中の音楽の終幕とともにぴたり、と動きを止め、息をついた瞬間、ぱちぱちぱち、と、手を打つ音が聞こえた。
「……きれいだねえ」
 はっとして周囲を見回すと、黒い髪の小さな男の子が目に入った。少年に向かって無邪気な笑顔を見せ、小さな手を、たどたどしくも打ちならしている。
 身なりの良さからすると平民の子ではなさそうだったが、貴族の子弟ならば何故こんなところでひとりでいるのだろう。供のひとりもつけずに。
 ふと、少年の脳裏にひとつの記憶が蘇った。
 かつて少年の家がまだあった頃、父母と姉とともにアディン伯に招かれたことがある。10と少しを数えるばかりだった少年も同席を許されたのは、割に気軽な雰囲気のガーデンパーティーだった。周囲は当然ながら大人ばかりで、話し相手になるような存在を求めて見回していたときに、その庭の片隅で見かけた、ようやく赤子から幼児に変遷を遂げたばかりの年端もいかぬ子供。あれから2、3年というところか。おそらくこれくらい……というような気はしたが、なにぶん身近に比較対象がいなかった。
 その子である、気がする。確か名前は。
「ナサナエル……さま?」
 その名を唇に乗せると、ずいぶん驚いたようだった。
 名を問い返され、言葉に詰まる。
 膝を折り跪き、紡いだ名はしかし、幼子が覚えるには少々長かったようだ。剣奴としては、過ぎた名だ。
「呼びたいようにお呼びいただいて結構ですよ」
 たとえばエリザベスという名の子をエル、エルザ、エリー、ベス……そう呼ぶのと同じように。
 ナサナエルは少し悩んだ様子だったが、少年ににこりと笑みを向けた。
「にいさま……あにうえ、……兄や!」

 弟も妹も持たぬ少年には、それは新鮮な響きだった。
 身分を剥奪され平民となった自分からはずいぶん遠くなってしまった存在からの、親しみの籠もった、誇らしいような、面映ゆいような、呼び名。
「ナ、ナサナエル様、それは流石に……」
 そんな風に呼ばせたと知れれば、どんな罰を受けるともしれない。
 が、ナサナエルの無垢な笑顔を見ていると、そんなことを怖れることがひどくちっぽけに思えた。

 このひとに仕えたい、と思った。
 無垢な笑顔を、純粋な瞳を守りたいと思った。
 今すぐ剣を捧げたいのに、騎士でない自身を、自分の身柄さえ自由に出来ぬ剣奴であることを悔やんだ。
 ひとつ、ただひとつ、方法がある。
 ただしそれは、自分の命を賭すかもしれない手段だ。

 自分を証明するなにもかもを捨て、脱走した。
 当然、容易には行かぬ。命以外に自分のものを持たぬ奴隷階級が、その罪の代償として奪われるのは命、そのもの。だ。
 少年は既にその町の剣奴や雇われていた傭兵の誰よりも腕が立つようになっていたが、それはあくまで1対1であればこその話だ。
 多人数が相手ではどうにも分が悪い。数多の傷を受け、それでも少年は走った。走り続けた。

 彼自身の天使の元へと、たどり着くまで。

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あとがき的なアレ
ゼロサム4月号を読んで!!
捏造しました! するしかない!!! 兄やあぁぁあっぁぁあ!!!!

一応3巻の巻末まんがのあのコマに続くことを想定してはいます。一応。