揺られる船
『あのとき、あの海で…死んでいればよかったのか?』
腹を背を刺され、酷く熱を持ったようなそこかしこから生命が熱く流れ出していくのを感じる。
人は死の直前、それまでの人生が走馬燈のように見えるという。
くずおれ息絶えるその刹那、ライツは確かに、光を見た。
***
酷く船腹に叩きつけられ、息が詰まった。
全身を襲う痛みと寒さに、その日の出来事を、今起きている出来事を、知らぬはずの未来をまざまざと思い出す。
まさか。最後の想いが叶えられたとでもいうのだろうか。
この海で、死ぬことの許可を得たとでも言うのだろうか。
空のどこか、きれいなところへ行くことが、許されたとでも。
名前を呼ばれている。
ああ、そうだ。こいつに助けられたんだ。
ロヴィスコ。
動かぬ身体を、無理に捻る。
身を抱くその腕を、振り払う。
「何を……おい、大人しくしろ!」
ライツの瞳が最後に映したのは、驚愕の表情を浮かべ、縄梯子から必死に手を伸ばしライツの名を呼ぶロヴィスコだった。
すべてを受け容れるおまえにも、そうし難いことはあるんだな。
そんな事を考えながら、暗く冷たい海に沈んでいった。
***
いくつめかの世界での疑問符、想い、願い。
ほんの偶然か、ただの夢か。それとも何らかの力が働いていたとでもいうのだろうか。
コーネリアはその世界を垣間見てしまった。
揺れる船、船を揺らす大波。吹き付ける風。稲光。
船上での生活には慣れているとはいえ、流石に船が嵐のさなかにあれば、大波に揉まれるたび何度も起こされる事となる。
波打ち際のような浅い眠り。闇におちた意識が不意に浮上した。
『コーネリア』
普段は医術師という役職のみで呼ばい、けして紡ごうとしないその名前を、唇に乗せたその男の姿が、見えた。
「正直に言えばいいだろう」
ロヴィスコが手にしたグラスを傾ける。その眼前ではライツが同じくグラスを手にしていた。
「ケッ」
唇を歪めるだけの笑みを浮かべ、グラスに口をつけた。
「……んな事言えっかよ」
そうか、とグラスをさらに傾け、空になったグラスにボトルの中身を注いだ。ライツにも勧め、グラスを満たす。
「おまえがあの話を持ってきた時は、てっきりそのつもりかと思ったんだが」
ロヴィスコがライツを見ている。その目が、やけに優しい。
「馬鹿も休み休み言えよ。あいつは……コーネリアはてめえに熱を上げてんだろ」
自分だって惹かれてるクセしてなに退こうとしてんだ、と語調を荒げるライツに、ロヴィスコは僅かに笑んで答えた。
「おまえの方こそ、わざとコーネリアに嫌われるような事をするのは止したらどうだ」
自分の女にするから手を出すなとほかの囚人を牽制しておきながら、自らコーネリアとの間に溝を作っている。
コーネリアに警戒させるような言動を繰り返し、かつ、クリティカルな部分には触れない。
互いを推し量っているような、懸念するような視線が絡み合う。
「……私はおまえが、コーネリアに──」
*
嵐の夜の何度めかの微睡み。何度めかの覚醒。目を開くと、そこはいつもの船室だった。
夢、だったのだろう。やけにリアルな、まるで、本当にその場にいたような。はっきりと会話が耳に残っている。
その翌朝から、コーネリアのライツを見る目がほんの少し、変わった。
ただ警戒し、距離を置くのみだったライツを、距離を置いて観察し、そして慮るようになった。
観察を続け、ライツのことを知るほどに、あの夢はやはり事実であったのではないかと、そういう思いを強めるのであった。
一癖も二癖もある囚人たちを束ねているだけあり、ただ暴力的なだけではない。けしてひ弱ではないが、ひょろりとした体格は屈強な船員や囚人の中では劣る方だ。どちらかというと知能犯である。流刑船に乗せられるに至った罪状までは知らなかったが、もしも犯罪に手を染めることがなければ、世に何らかの才能を開花させていたかもしれない。不思議と人を惹きつけるカリスマ性があり、どうやら囚人のみならず、一部の船員にも信奉者がいるようだった。
今までかけていた色眼鏡を外した途端に、もしくはその逆、夢の影響で新しくかけたフィルターのせいか。空の色が、世界が変わった。気がした。
コーネリア自身がライツに惹かれていく程度には。
船のどこにいても、視線を感じる気がした。それも不快なものではない。そうして見つめられている。その事を認識して、頬が熱くなるのを感じる程度には。
船倉から幾許かの薬草を持ち、医務室に戻ろうとした際のことだ。
白衣の袖を引かれ、不意に傍らの船室に引っ張り込まれた。このような真似をするのは、おそらく──。
睨みあげた相手は、見当をつけたのとは違う人物だった。
囚人服は同じだが、体格がまるで違う。長身にくわえ、がっしりとした体つき。手首を握る手に、少し力をこめられる。痛みに手から力が抜け、乾燥させた薬草が、鞘に収まった小さいナイフが、乾いた音を立てて落ちる。
「あなたは──」
名前を紡ぐと、ふ、と唇を歪められた。
「ああ、そういえば今はそう名乗ってるなあ」
おとなしくしろ、とドスの効いた声で脅しつける。コーネリアの手首をかたく拘束しているのとは逆の空いた手でナイフを取り出し、コーネリアの喉元に突きつけた。ライツは腑抜けちまった。あいつが執着しているあんたを、めちゃくちゃに壊してやりてえんだ。と。
ぞくり、と背筋を冷たいものが流れた。
手首を力任せに捻り上げられ、関節が悲鳴を上げるように軋む。
囚人を見張るという行為が不要となった今、こんなところを歩き回る者はいない。声を上げたとしても、助けが得られる可能性は低いだろう。
視線だけで部屋の中を見回す。一瞬でも気を逸らし、ここから脱出する方法を。
*
「待てよ」
肩を掴まれ、その場に留められる。
「っ……放しなさい!」
痛む方の手をかばいつつ、ライツの手を振り払おうとするが、ライツはいつものように退こうとはしなかった。
「……誰だ」
静かに怒りを含んだ口調で問われる。視線から察するに、その言葉が何を指しているのかは明白だった。
「心配でも?」
挑発するような言葉には、想像通りの返答があった。
「誰がっ……! ……俺らにもな、筋ってモンがあんだよ。それを通さねえ奴は放っておけねえ」
最後まで、頑として口を割ることの無かったコーネリアだったが、男の方は違ったらしい。その日の夜には酷い有様だった。
ライツに申し入れ、該当の人物を医務室に連れさせた。
「傷を診せなさい。あなたには治療を受ける義務があるし、私には治療を行う権利と責任があるわ」
静かな口調で言うコーネリアに、男は歯噛みしながらも腕を差し出した。痣になっているのと
止血はされているものの、まだ新鮮で無惨な傷口に、湯で戻し刻んで練った薬草の汁を擦り込み、膏薬を伸ばす。慎重に閉鎖してから包帯を巻き、金具で止めた。
男もコーネリアも、最初の一言以外には口を開こうとしなかった。
*
激しい嵐の中、アゼルプラードは波に揉まれていた。
夢を見た夜と同じような、あるいはもっと激しい嵐の夜。だが前回と違い、今度はアゼルプラードに眠る余裕のある者はなかった。基準値以上の睡眠をとることが義務づけられている、医術師たるコーネリアも起きていた。
嵐の晩には巨大水棲生物の発生率が高い。あの晩はそれらとの接触がなかったが、今回はそうはいかなかった。
襲いかかる大海蛇をなんとか撃退しようと、皆が必死だった。負傷者はひとりふたりでは済まない。甲板の上でコーネリアは右往左往しその手当に追われていた。そしてもう一人。無茶な戦略を立て、今まさに交戦中のライツを迎える準備をしていた。
計画とも言えぬような、ほぼ捨て身といっていいようなそれは、成功しても酷い怪我を負うことが容易に予想された。
あちらこちらへと走り回るため、命綱をつけていないコーネリアは甲板から海を覗き込むことは出来なかったが、爆発音が聞こえたら、ロヴィスコが縄ばしごを用いて助けに降りる手筈になっていた。
どうやら撃破に成功したらしい。そちらの側から歓喜の声があがった。未だ荒れ狂う海に向け、船長が予定通りに降下する。
不意に、空気が変わった。
風と波とにかき消されそうな、しかしはっきりと聞こえるロヴィスコの声は確かにこの音を乗せていた。
──ライツ。
縄ばしごごと引き上げられたロヴィスコは取り乱した様子で、今にも単身飛び込まん勢いだった。それを周囲の船員が必死に止める。
「ライツが、腕を振り払って海に──」
その言葉を聞き、コーネリア自身も舳先に駆け寄った。
あわてた様子の船員に取り押さえられつつも、着衣が破れるくらいにその手を振り払い、手すりに捕まって身を乗り出した。
怒れる海はただ黒々と波をたかぶらせ、小船だった板切れのかけらが時折姿を見せるのみだった。
そこから強引に引き離され、甲板に尻餅をつく。
「正気か!? おまえまで落ちたらどうする! 落ち着け、コーネリア!」
船員仲間の叱咤の声も、ろくに頭に入らなかった。
ライツが、落ちた。
ロヴィスコの腕を払い、この荒れ狂う暗い海に。
波に揉まれ、見えなくなってしまった。
飲み込み難い事態に悪心を覚えた。
ぐらりぐらりと視界が揺れるのは、波に揉まれるこの船の揺れのせいだけだろうか。こみ上げる吐き気に歯を食いしばり、目を閉じる。コーネリアの意識はそのまま闇に飲み込まれた。
*
目を開けると、まさにロヴィスコが降下しようとしているところだった。
「船長!」
駆け寄り、半ば叫ぶようにして、伝える。
「ライツは、爆発の影響で混乱して暴れるかもしれないから……船長に命綱をつけて、引き上げるときは、しっかり抱きしめていて!」
果たして。ロヴィスコの腕に抱かれ、突かれた魚のように暴れるライツが船長の腕から逃れたのは、甲板にまで引き上げられてからだった。
「医長! 血清はあるか! 右足に咬傷2箇所!」
言葉よりも早く、手際よく血清を用意する。
体力など残っていない癖に、注射を拒否しようとでもするように暴れるライツを抱きしめる。
知っている。そう、知っている。
ライツはコーネリアに惹かれている、その事実を。
驚いたような表情を浮かべるライツの身体から力が抜けるのを確認すると改めて、用意した血清を射った。
*
そして、各々の立ち位置をほんの少し変えたまま、時は流れた。
ライツの言動に賛成できかねる部分は多々あったが、それによってゆっくりと変容していく自信やロヴィスコを見るのは悪くなかった。確かに、楽しい思い出も沢山あったのだ。
やがて──世界の果ての滝を越え、ロヴィスコ率いる船団は大陸へとたどり着いた。
船室に充満する、鉄錆に似たにおい。
床に広がるそのみなもと。
事切れたロヴィスコ。
なおも圧し掛かるライツ。
血に濡れ、赤黒く反射するナイフ。
やはり、生かしておいてはいけなかったのだ。
許さない。許してはいけない。
一時は確かに絆されかけた、あの男はどこにもいない。
そんなものは、やはり存在しないのだ。
やさしい目をしたあの男。
とんでもない方法で船を救い、自身は海に落ち、死ぬことまで選んだ、あの男。
何故だろう。今辿った道を、ねじ曲げたあの瞬間。あの時は何か別の存在の力を、意志を、感じた。気がした。
コーネリアの知っているライツは、記憶の中のライツは、自ら死を選ぶようなことはしない。けして。
見えないはずの場所から確かに見えたその目は、何故だろう。ロヴィスコの面影さえもあった気がした。
どうしたら──。
***
また、失敗、だ。
コーネリアの意識がゆっくりと闇の底に飲み込まれる。
今度はどこを直そう。
パズルのピースの形を幾度も修正し、再試行を繰り返しても、どうしてもぴったりとはまらない。綺麗に絵が出来ない。
何度なぞっても、滝を越えた先でロヴィスコは刺し殺されてしまう。
やはり、ライツへの警戒を薄めた事が悪かったのかもしれない。
一人の犠牲も出すものかというロヴィスコの言葉に従ってきたが、そんな解は存在しないのかもしれない。全員が幸せになれる方法がないのなら、せめて自分とロヴィスコだけでも──。
しかし、ライツがあの海で死んでしまうと、滝を下ることが出来ない。それは、その考えは、ロヴィスコがライツとの交流の先に見いだしたものだから。
現実を受け容れることを拒否したコーネリアの心は、今も尚、海の上にあった。
ロヴィスコ船長と、他の船員仲間と、そして囚人との航海を、何度も何度も繰り返す。
あるかどうかもわからない、たとえその道があったとしても、もうけしてたどり着けないハッピーエンドを求めて。
あとがき的なアレ
ライツ(というかコーネリア)の話をお送りいたしました。
まったくめでたくない話で恐縮なのですが…
lynxさんお誕生日おめでとうございます!
ということでこのお話を捧げます
谷山浩子さんの「船」といううたをほぼなぞっています。
最後の最後、ほんのひとときだけ心が重なったふたりです。
ライツ(というかコーネリア)の話をお送りいたしました。
まったくめでたくない話で恐縮なのですが…
lynxさんお誕生日おめでとうございます!
ということでこのお話を捧げます
谷山浩子さんの「船」といううたをほぼなぞっています。
最後の最後、ほんのひとときだけ心が重なったふたりです。