水の浸食



「心配しすぎなんだよ……おまえはさ」
 リンナの唇を解放すると、それだけ言って息をついた。
「は、しかし……恐れながら殿下、このようなところでは誰が見聞きしているかわかりません。用心をする事に越したことはないのでは……と」
 このようなところ、と称されたここは、要は連れ込み宿だ。
 今夜を過ごすこのまちには、貴賓宿が無かった。一番高級な宿でも、大浴場形式なのだ。貸し切りにしてしまえば良いのだが、生憎と先客がありそれがかなわなかった。
 風呂に入りたいと訴えるベルカに、エーコがそれならここに行くといいよ、と手渡したメモの行き先がここだった。
 ゆっくりしておいでよという言葉はいったいナニを指しているのか。宿の前に着いてから目眩がした。バレやしないかと気がかりだったが、どうやら従業員と顔を合わせる必要のないシステムらしく、腰より少し高いくらいの台に代金を乗せると、中から鍵が差し出された。鍵と同じ印のついた部屋は、こんな場所なのに関わらずこざっぱりとしており、湯船は湯で満たされ、そして部屋の真ん中に鎮座しているベッドの大きさは王城で使っているものと比しても遜色がなかった。

「いや、ここでそんな事言ってたら、このまちには安心できる場所なんてねえだろ」
 吹き出しそうになりながら言う。
 ひとまずはその部屋に入りあちこちを物色すると、リンナに手助けをしてもらい、窮屈な女中の装束を脱いだ。
 そして目のやり場に困った様子のリンナを腰掛けさせ、唇を重ねた。のだ。

 どうしてだろう。
 自分よりも20cmちかくも背が高くて、筋肉もついてがっしりしてて、デカい。そんなヤツが俯いて頬を染めるのが、可愛いとまで思えてしまうのは。
(……これが兄上が言ってた、ギャップ萌え……ってヤツか?)
 二度目の深い口接けを終えリンナを見ると、リンナもまた伏せていた睫をゆっくりと上げ、その瞳にベルカを映した。
「殿、下……」
 息が上がりこそしていないものの、声は僅かに熱を帯び、どちらのものかもわからぬ唾液に濡れた唇が紅をさしたように赤かった。
 それに誘われるように、もういちど唇を重ねる。背に回した手でリンナの上衣をきゅうと掴むと、おそるおそるといった様子でベルカの背にも手が回された。
 服越しに体温を感じ、一層の高揚を覚える。かるく開かれた脚の間に膝をつき、肩を押すと抵抗なく後ろに倒れ、ベッドが軋みながらも体重を受け止めた。
 そのまま、また唇を重ねる。先ほどよりも深く。正しいやりかたなどわからないが、差し込んだ舌先で夢中になって口腔の奥を探り、沿わされた舌に絡める。
 その行為が余りに甘美で、頭の芯がクラクラしてくるに至りようやくまた唇を離した。
「っは……」
 酸素を求め荒く息をつく。眦を朱に染め、とろりとした眼差しながらも、そちらの点では平然としているリンナに問うた。
「……やっぱり、鍛えてるからか? 肺活量か?」
 何を指すのかととっさにぴんとこななかったリンナであったが、ああ、と合点がいった様子を見せた。
「息を……ずっと止めていらしたのですね。時折唇をずらすか、鼻を使ってゆっくり呼吸すれば苦しくなりません」
 圧し掛かった体勢のままのベルカの背に回されていた手がゆっくりとその位置を変え、首の後ろと後頭部に触れた。わずかに加えられた力に抵抗せず、なすがままに引き寄せられる。
 ついばむようなキスから始まったくちづけは、次第に深さと激しさを増してゆく。呼吸さえ奪おうとするかのようなそれに息苦しさを覚えるも、先ほどのリンナの言葉を思い出しながら、ゆっくりと酸素を肺に送る。
 それでも酸素が足りぬせいか、それ以外の要因か。次第に頭の芯がクラクラと痺れてくるような気がした。いつの間にか、リンナの手がベルカの短い髪を梳いている。指が頭皮を擦る感覚も僅かに髪が引っ張られるような感覚も、どちらもとても心地よかった。
「ふ……っ、ぁ……」
 どれほどの間そうしていただろうか。唇が解放され、ベルカは荒く息をついた。
「は……おまえ、ずりぃんだよ」
 とろりとした目つきで言われ、リンナははあ、申し訳ございません。と、詫びの言葉を口にした。
「……今日は、お前を気持ちよくさせよーと思ってたのに」
 ベルカの言葉に微笑み、言葉を返す。
「その点でしたらご安心ください殿下、殿下との口付けは私にとってその…とても……そ、その、幸福感と、満足感と……ですね」
 言葉にすることで羞恥が増したのだろう。ベルカを見上げる体勢で先ほどよりも更に真っ赤になりつつも、必死にそれを告げようとするリンナに気を良くしてベルカは指を一本、リンナの唇の前に立てた。
 意図を察し、口を噤んだリンナの唇に、もう一度自らのそれを重ねた。
「俺も……、お前とこうしてるの、すげー好きだ」


 意を決した表情で想いを告げられたとき、どれだけ嬉しかったことだろう。マリーベルだから、だけの理由でなく、ベルカ自身が好きだ、などと言われては。
 もしかしたらそれは、ベルカの自己承認欲求が満たされただけなのかもしれない。ただ自分自身を見てくれる誰かが欲しかったのだけなのかもしれない。
 でも、確かに嬉しい。それは、間違いない。
 自分もリンナのことを好きだと、思う。
 でもそれは本当に、そういう意味での好き、なのか?
 真摯に気持ちを向けてくれたリンナに、誠意をもって応えたい。そう思って、少し時間をもらった。
 リンナを抱きしめたい。……少し、体格的に辛いものはあるけれど。
 リンナに抱きしめられたい。その力強い腕で、想いを込められて抱きしめられたら、どれだけ幸せなことだろうと思った。
 リンナに口付けたい。あるいは、もっと。本でしか知らないけれど、恋人同士でするような色々なことを。
 一晩ずっと考えて結論を出したのだが、そんな事は意味がなかったとその翌日になって思った。この気持ちが[好き]でなかったら、いったい何がその感情であるというのだろう。ひざまずき、審判を待つような神妙な顔でベルカを見上げるリンナに目を閉じさせ、身を屈めて唇を重ねた。
 それから、人目を避け唇を重ねるだけの行為を何度か繰り返し、今に至るのだった。
 筋肉でもあり鋭敏な感覚器でもある唇を触れ合わせ、差し込んだ舌先で探ったり探られたり、歯列や硬口蓋と軟口蓋の境界をなぞってみたり、互いの舌を絡めあう。それだけの行為が、たまらなく心地良いのだ。


 かかる吐息や、どちらのものともつかない抑えきれない声が熱を煽る。
 もっと先に進みたいような、今こうして口付けているだけでこれだけ気持ちいいのに、それ以上のことをしたらいったいどうなってしまうのか不安なような。
 そんな感情のせめぎあいと、もう少し直截的で生々しい理由。男女の恋人同士でするような事をするのならば、どちらかが男役、どちらかが女役になる必要があるのだろう。それをどちらがつとめるのか。

 ふたりの間の未だ崩せぬ壁は、それでも波が砂浜を削るように、じわりじわりと浸食されていくのであった。
 触れるたび、抱き合うたび、唇を合わせるたびに、少しずつ。

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あとがき的なアレ
ここのところ原稿と現実に追われてろくにSSがアップ出来なくてあれなのですが
HARUに発行予定だったベルリンペーパーのお話をそっと置いておきますね…
ベルリンだかリンベルだかというかちゅっちゅしてるだけですけども。