優しい嘘



 農商の荷に紛れ、櫃の中で揺られていると、どうにも眠気を誘われる。無理もない、薬もまだ効いている。リンナの存在を隠している、植物の蔓を用いて編まれたというそれは、ほんのり干し草に似たにおいがした。
 馬車の中にいるもうひとりの人物、すなわち運搬を引き受けてくれたのは腰も曲がった老婆で、ちいさな眼鏡をかけ、この揺れる馬車の中、今も刺繍をしているのだろう。
 礼と危険に晒してしまうかもしれない事に関する詫びの言葉を口にすると、既に耳が遠いというその老婆はカラカラと笑い、甲高い声で言ったのだ。
「あんたがオルセリート様をお救いしたんだべ? なぁに、確かに大僧正様のお頼みを無碍にする事は出来ねっけどよ、わっしがあんたに協力したいと思ったんよ」
 言葉にはしなかった、リンナが抱いていたおそれも見事に覆した。小さい身体、皺の沢山刻み込まれた顔が、何故かとても頼もしく見えた。

 櫃の中は狭かったが、存外に快適だった。石や木でなく植物の蔓で編まれ作られたその箱は、ある程度の可塑性を持っており、中で身じろげばその動きに合わせ、わずかに形が変わる。隙間からは光が漏れ入り、通気性も問題ない。
 だが、さすがにこう狭いところで全く動かずにいては身体が痛くなる。先日までは絶対安静で、外に出るのすらも久しぶりという現状では尚のことだ。櫃の中で時折、もぞもぞと姿勢を変えていた。そのたび、首もとでヒラつくリボンを下に敷いてしまわないよう整える。
 首周りにゆるく巻き付けるタイをすることはあるが、こういった装飾的要素の強い、つまり明らかなるリボン型をしたものを身に着けるのは初めてで、どうにも落ち着かない。自分にこういったものが似合っているとも思えなかった。アスコットタイのようなものならともかく、男性でこういったリボンをするのは一般的に──そう、貴族の子弟や王族などの高貴な身分の者か、詩人などの自分を飾りたてることも商売の一環であるような立場か、さもなければ傾奇者、だ。
 ふと、立太子式の時のベルカの衣装が浮かんだ。あのときは確か首許にリボンタイを結んでいて、上着とのコントラストが映え、とてもお似合いだった。最後に見たときには、そういえば結んでいなかったようだったが。

 ──ああ。ご心配をおかけしてしまっただろうか。
 ベルカの事を想うと、胸が熱く、そして痛くなる。 この痛みはきっと、ノイ=ファヴリル街区での約束を破ってしまった痛みだ。
 鉄柵に貫かれたとき、自分は確かに死を覚悟したのだ。覚悟した、というのは少し違うかもしれない。覚悟させられた。せざるを得なかった。まさか生きながらえるなど、思いもしなかった。そしてもういちど。ミュスカ内親王殿下に止められなければ、自分はあの鋏できっと喉を突いていただろう。せっかくすくい上げられた命を、投げ捨ててしまうところだった。
 胸に握りしめた手を当て、痛みをやり過ごそうとする。柵に貫かれた部分の痛みでも、長時間同じ姿勢を過ごしていたせいでもない、締め付けられるような胸の痛み。
 もしかしたら、長期間にわたり安静にしていたために、身体に何らかの弊害が出ているのかもしれない。ひょっとすると、何らかの薬を用いられたのやも。
 意識してしまうと、その痛みは更に強くなる気がした。
 目を閉じてゆっくりと、できるだけ深く呼吸をする。サナの衛士隊にいた頃からの、身体に入った無駄な力を抜き、リラックスするための呼吸法だ。
 傷が疼くときなどにも有効なのだが、いまいちこの痛みにはききめが薄い。それでも続けていると、少しずつ和らいでくるような気にはなってくる。
 目を閉じて呼吸を整える。荷馬車が揺れる。
 いつしかリンナは、緩徐に忍び寄る眠気の淵に誘われていた。


「……リンナ!」
 目を開けると、[マリーベル]──の格好をしたベルカがいた。どくり、と、鼓動が跳ねる。
「珍しーな、おまえがこんなに眠り込むなんて。疲れてるだろうか起こしちまうのも悪いかと思ったけど、町に着いたから」
 これは夢だ。馬車の揺れにつられて、馬車で旅をしていた頃の夢を見ているのだ。頭ではそう思いながらも、全身の感覚器がこれは現実だと訴えていた。
 そよぐ秋の風。町の喧噪。懐かしい、あまりに懐かしい、ベルカのその声。
「殿下……お手に触れることをお許し願えますか?」
「……? 突然どうしたんだ?」
 不思議そうに首を傾げながらも差し出された手にそっと触れる。温かい。これは、本当に夢なのだろうか。
 ぎゅうと胸を締め付ける痛みに襲われ、リンナは思わず、縋るようにベルカの身体を抱き締めた。そうすればその痛みが和らぐとでもいうように。しかし。
「お、おい……ひょっとして、寝ぼけてんのか?」
 戸惑い半分焦り半分のような声に、はっとなってベルカを解放する。
「あ、も……申し訳ありません。その……殿下にずっと、お会いしたかったもので……」
 きょとんとした後、表情を和らげたベルカはリンナの目をじっとのぞき込んだ。
「夢でも見てたのか? ほら、ちゃんと起きろよ。俺はずっとおまえの隣にいたぞ」
「でん、か……?」
 夢。
 これが現実で、先ほどまでのが、悪い夢だとでも言うのだろうか。
 荷に紛れて王府を出たのも、太陽宮での出来事も、もっと以前……水門で身を貫かれたのも、ベルカとエーコと、王宮へ入ったのも。全部、夢だったとでも。

 違う。

 リンナの手を気遣わしげに握っている、ベルカの手のあたたかさ。貫かれたはずの場所は痛まない。
 これが現実であったらどんなによかっただろうか。しかしこれは夢だ。夢魔が見せるやさしい嘘だ。
 首許に、リボンがある。着け慣れないこれは、大僧正様より授かったものだ。英雄王の御力で清められた糸を織り込んだ布で作られているという。
 この夢に、囚われてしまってはいけない。
 マリーベルの格好をしたベルカ。エーコ。おそらくはミュスカとシャムロックもいるのだろう。王府まで、馬車での移動は思いもかけず楽しい日々だった。
 思い返して懐かしむことの出来る、幸せなひとときだった。
「なあ、どうしたんだよ?」
 眉を寄せ、心配そうにベルカがリンナを見る。夢であっても、こんな顔をさせてしまうのは胸が痛む。
「そうだ、エーコが買ってきてくれたんだ。一緒に食わねー?」
 差し出されたのは串焼きの貝だった。バター焼きのいい香りが鼻腔をつき、胃袋を刺激する。
 だが。
「申し訳……ございません、殿下。私はそれをいただくことは出来ません」
 ベルカを抱き寄せ、抱き締める。その手から串が落ちる。
「必ず……必ず、あなたの元に戻ります。その時にはまた、そのお言葉を頂戴したく思います」
 ゆっくりと、視界が揺らぐ。目に見えるものの輪郭が徐々に溶けていく。町並みも、馬車も、腕の中のベルカも。
 

 ガタン、とひときわ大きく馬車が揺れ、リンナははっと目を開けた。
 ベルカを抱き締めた感触が、まだはっきりと残っている。耳の奥には声音も、肌に触れた吐息も。本当に夢だったのだろうか。そう自問してしまうほどの現実感があった。
 夢の中のベルカに握られていた手が、じんじんと熱い。
 櫃の内に落ちる光は幾分傾いてきている。相当の時間がたったのかもしれない。どれほどの間眠っていたのだろうと思う。と同時に、時間が経過したという事は目的地に近付いているということだと考えると、いっそう心が逸る。
 会いたい。一刻でも、早く。


「リンナ……!」
 羽根ペンを握ったまま、眠ってしまっていたようだ。
 ヨダレが垂れてはいないだろうかと、ペンを持っていない左手で口元をごしごし擦る。と同時に、心地の良かった泡沫の夢を思うとじわりと涙が浮かんできた。リンナの夢を見て、覚めてから落胆するのにも慣れざるを得なかった。その、筈なのに。
 さきほど口の端を擦った手で、今度は目を擦る。
「ダメ、だよな……俺、もっとしっかりしなくちゃいけねえのに」
 それでも、たまに夢でおまえと会うことくらい……、許してくれよな。俺、頑張るから。
 誰に言うともなく呟き、唇で右手の甲にそっと触れた。
 卓の上にただ投げ出されていただけのはずなのに、やけに温かい気がした。

BACK





あとがき的なアレ
サブタイトル「おりぼんぶんたと夢魔の嘘」
エイプリルフールなのでエイプリルフールネタを…
お二人ともウソのつけない方だからこれは…フラナサあたりで…
と思ったのですが…ゼロサム久々の本編がリンベルうううううう!!
ぶんたあああぁぁぁぁあ! リボンんんんんんんんんんん!!
というテンションだったのでこんなことになりました。