電気羊



「王太子として、いずれは王として……御子を残されるのは大切なお役目です。そういった教育を受けるものだと思っておりましたが……まさか、全くご存じないとは」
 キリコの呆れたような声に対し、精一杯の強がりを込めて睨みつけた。
「ふ……ぅ…る、さい!」
 だが、その微かな抵抗もキリコの手により摘み取られる。
「くぅ、あ……!」
 掌を先端に押しつけるような動きに一瞬硬直し、ぶるりと身を震わせる。吐き出された液体はキリコの手によって受け止められた。満足げに唇の端を上げる。今は包帯の巻かれている右手、伴侶としての誓約を結んだときに血液をそうしたのと同じように、白濁した粘性の液体を舐めとった。
「な、んてもの…を……」
 乱れた呼吸の中で問いかけにならぬ問いを口にする。
「ふむ……確かに、とても濃いようですね。ご自分では全くなさらないということは、徒に下着を汚されるのですか」
 語調こそ丁寧だが、明け透けな物言いに目を見開く。知識がないとて、その能力を持つには十分な年齢である。自ら適度に処理を行っていないとなれば、結果は明らかだった。
 そんなオルセリートを見、キリコは笑みを深くした。
「しばらくの間、芝居を打っていただこうと思っていたのですが……、これだけ敏感でいらっしゃるなら、特に演技をなさらなくても差し支えありませんね」
 我慢をせず声を出していただかなければなりませんが、という言葉に、その『芝居』とは何なのかを察した。
「何を……考えている」
「おそらく、あなたが思い描かれた内容で大筋は間違いないかと存じます」

 『人形』のフリをさせる、という考えは、伴侶としての誓約を行った際にまず浮かんだのだが、それはある種の危険を伴うものだった。
 演技を見破られるかもしれない、ということがひとつ。
 もうひとつは、元老を完全に騙しきった場合である。
 キリコには後者に関して懸念するだけの十分な理由があった。人間がいかに、意志を持たぬ者に対して、もしくは意志の表出が出来ぬ者に対して酷い仕打ちをするかを、よく知っている。
 ゼファニア。キリコ自身の母たる彼女もまた、そんな者たちの被害者であった。あるいは、キリコ自身も。
 誰かがそのような扱いを受けるのを看過するのは耐え難いことだった。たとえその意志を奪い、ひとのかたちをしているだけの『もの』にする予定だった、形式ばかりの主であろうとも。
 幼かった頃のことを思い返す。
 7歳のあのとき、一命は取り留めたものの、毒使いとしての適性を見限られてからは、屋敷に身の置き処がなかった。齢10を数える頃までは。

『おしえてあげるよ』

 玉を転がすような声が聞こえた気がした。風に遊ばれる、やわらかな金色の髪が視界を掠めた気がした。だが眼前の金髪はかたくやや癖があり、それが記憶の水底から顔を覗かせただけの幻だと知る。遠い日を思い、わずかに瞳が陰を帯びた。
 フランチェスコの手により開かされた身を使い、屋敷を訪う貴族をもてなしたのも、今では過去のこと。
 しかし。
「……あなたが『人形』になり、私に籠絡されていると、そう思わせておくのがいちばん好都合なのですよ」
 元老たちの中には、『ラーゲンの手管』を身を以て知っている者が何人もいる。材料を与えてやれば勝手にそれと合点するだろう。
 頭の中身を壊し、性技で絡めとったのだろうと。
「ですから……多少の羞恥はご覚悟くださいませ」
 そうすることで、失わずに済む誇りもある。
 蹂躙されるくらいならば、すでに誰かひとりの手に落ちたと見せるのも、またひとつの手段だ。
 
「ふ……は、ぁっ、……!」
 水音に混じり、嬌声が響く。
 衝立の向こう、湯殿での光景を思ってか、メイドがひとり、真っ赤に俯き、エプロンを握りしめていた。
「あ……はっ、キリコ……キリコ……!」
 近しい位置でお世話に当たるメイドや使用人は感づいていた。オルセリートは最近少しご様子がおかしい、と。
 最近のオルセリートは、人が変わったようだった。
 周囲の者に、以前のようには心を配られず──とはいえ、お忙しい、しかもこれだけ高貴な身分であるオルセリートが、使用人にまで優しい言葉をかけてくれていた、その以前の状態こそが『普通』からは逸脱しているのだが──妙に無口になり、そして。キリコの前では子供にかえったように振る舞う。
 兄の件のショックで少し不安定になられているようだ──ということになっているが。
 それだけではない、と思いつつも、それをほかの誰かに話すことは考えられなかった。そんな忠誠を疑われるようなことはできない。ただでさえ、最近では処刑される者が多いというのに。
「ふあ、あぁ……」
 聞いてはいけないと蹲り耳を塞いでも、艶を帯びた声は指の隙間をすり抜けるようにして届いてくる。
 ひときわ高い声が上がり、ようやく静かになった。息をついて、皺になってしまったエプロンを整えると、中から声をかけられた。冷たい水をお持ちしろと言う言葉に従うと、放心したようなオルセリートがぐったりとした様子でキリコに支えられていた。少しのぼせられたようだ、と見え透いた杯を渡しすぐに下がったが、そのやけに淫靡な光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 ***

 使用人たちにわざと目撃させ、じわじわと噂の種をまいていく。
 ひとりひとりの口は堅くとも、同じ秘密を持った者たちはなぜだか惹かれ合い、その秘密を共有したがる。秘密の共有に満足した者は、今度は周囲を焦がす火種となる。
 じわりじわりと、密やかに噂が広がる。こういう情報は表だって広げるよりも、水面下の乱れをその上から否定する方が、その下ではより拡散され広がってゆくものだ。
 オルセリートを姫君のように扱い、子供の精神に戻ってしまったように振る舞わせる。かつ、接触する使用人はなるべく少なく、しかし接触した者は、キリコとの間に何かただならぬものを感じるように仕向ける。
 立太子式直前に『薬の調整』が終わるように。
 使用人を通じ、元老にそれとなく情報が渡るように。

「キリ コ」
 父バルバレスコとの話し合い中、薬が効いているフリをしたオルセリートが姿を現し、あまつさえ縋るように腰にしがみつかれた際にはさすがに肝を冷やした。
 父の前でまでそのような振る舞いをさせるつもりではなかった。直接手を下すことさえ無いが、薬の処方などについて、ある程度は知っているはずだ。いったい何の効果だ、どういうことだと問いつめられることを危惧したが、どうやらそれは回避できたようだった。
「──あまり、私を驚かせないでいただきたい」
 顔を埋められているために見えないその表情。唇の端は上がっているのだろうと、そんな確信があった。なにも知らぬ、ただ温室で育てられた少年だと侮っていたのだが、妙に肝が据わっている。それに。
 ふう、と息をつき、キリコ自身も唇を歪めた。
 同じ目的を持つがための形式ばかりの主のつもりであったが、心からの忠誠を誓ってみるのも良いかもしれない。そんなことを考えながら。

BACK





あとがき的なアレ
5日に突発的にもう1冊印刷所に突っ込もうと思いたち、
リンベルを書いている間に降ってきたキリオルです。
すなおで可愛いキリコと白セリートの話だったのに
あれ…