無視と認識



 不意に意識が浮上した。カーテンの向こうはまだ暗い。ほんのりと隙間からさす光の加減から察するに、月が高い位置にあるようだ。
 睡眠薬を飲まずとも眠れるようになり、最近では痛みに目が覚めてしまうこともなかったのだが。じわりとひきつれるような鈍痛は安静時も未だ残っているが、無視できる程度だ。
 では、何故目が覚めたのか。答えはすぐに出た。
 部屋の隅の扉が注意深くゆっくりと、しかし確かに何者かの手によって開けらているのに気付き、緊張が走る。まさか、キリコの手のものだろうか。この屋敷にまで侵入してきたというのだろうか。
 もしそうならば、眠っていると油断を誘った方が良いだろう。身じろぎもせず、闇の向こうを見通そうとするように、じっと目を凝らす。
 しかし、それは杞憂に終わった。
「リンナ、起きてるか……?」
 ひそやかにかけられた声は、間違えるはずもない、ベルカのものだった。
「殿下……? このような真夜中にどうなさいました?」
 身を起こすと、いや、起きなくていい、と手を振りながら部屋に入ってきた。が、流石に寝たままという訳にもいかない。立ち上がろうとすると、座ったままでいいから、と止められた。
「何かあった、って訳じゃねーんだけど……ごめん、起こしちまって」
 見ればベルカは手に何かを持っている。どうやら掛け布のようだった。

「寝付けなくてさ……。水門でおまえと別れてから、何度も何度もおまえの夢を見た。怖いんだ……目を開けたらまた、おまえがいなくなってるんじゃないかって……」

 それは、リンナにも覚えのある感覚だった。
「もうどこにも行かないって言ったおまえを疑ってる訳じゃねーけど、でも……」
 ぐ、と、手に力が籠もったのがわかった。
「おまえの寝る邪魔はしねーようにするから、ここで寝てもいいか……?」
 携えていた掛け布を肩にひっかけ、ベルカはリンナのベッドの横にストンと腰を下ろした。そのような場所で眠らせるだなんてとんでもない。あわててリンナが起きあがろうとするのを制する。
「ばっ……まだ完全には治ってないんだろ! ケガ人はおとなしくベッドで寝てろ! ……俺がここで寝るから、手だけ繋いでもらえねーかな……ダメか?」
 差し出された手を取ると、緊張した様子だったベルカがやや表情を緩めるのが見て取れた。その指先に口接け、息を呑んだベルカに自分が腰掛けているベッドを示した。
「殿下には少々……窮屈かもしれませんが、こちらでよろしければ二人横になれる程度の場所はございます」
 城で目にした、広いベッドを思い返しつつ、私などと一緒のベッドがお嫌でなければですが。と付け加えると、呟くような小声で返答があった。
「おまえと一緒に寝るのが嫌だったら……ここまで来ねーよ」
 それより傷口は大丈夫なのか? と問われ、はいと頷く。傷それ自体はもう塞がり、新しい皮膚で覆われている状態だ
「ん……じゃあ、悪いけど邪魔するな」
 おろした脚を再度ベッドの上に持ち上げて後ずさると、ベルカはすぐに空けた場所に身を滑り込ませ、パフッと音を立てベッドに伏した。ぎし、とベッドがきしむ音に、何故だか胸のざわつきを覚える。
「──ん。おまえのにおい……落ち着く……」

 潜めるような吐息は、やがて規則正しい寝息に置きかわっていった。安心しきった様子の寝顔に口接けたくなる衝動を抑える。
「おやすみなさいませ、殿下」
 囁きかけて掛け布を丁寧に整えた。鼓動が早鐘を打つ。本当は髪にも肌にも触れたい。この腕で抱きしめ口接けたい。貫き揺さぶりたい。腕の中で蕩けるさまを堪能したい。
 身の内のざわめきの一切を無視し、自分も目を閉じた。
 隣でこんな風に安心して眠ってくれているのに、その信頼を壊すような真似をしてはいけない。

  *

 そんな夜が何度か続いた。
 いくらリンナの自制心が強いといえ、毎夜隣にベルカに寝ていられると、我慢し続けるのも辛くなってくる。
 あまつさえ寝言でリンナの名を呼んだり、夜着を握りしめたりするのだ。その呼びかけに応え、腕の中に抱き締めたい、あるいはもっとそれ以上を……という衝動に身を任せたくなってしまう。
 ベルカと共に在る『日常』を、幾日も過ごした。ベルカ自身も、リンナがいなくなってしまうのでは、という怯懦を持たずにすむようになる頃合いだろう。

 その夜、いつものように、皆が寝静まった折に忍んできたベルカに、恐れながら……と切り出した。
「殿下……申し訳ありませんが、私の部屋でお眠りになるのは今夜限りにしてはいただけませんでしょうか。私は……ある衝動を抑える事が堪え難く、このままではいつ殿下の信を裏切ってしまう事になるか、気が気ではありません」
 そのまま頭を下げたためベルカの表情はわからなかった。しかし、息を呑み、呼吸が乱れたのは伝わってきた。
 ベルカの返事は、リンナには思いも寄らぬものだった。
「ごめん……俺、自分のことばっかりで……。俺がいると、おまえはリラックス出来ねーもんな。夜くらいひとりでゆっくり寝たいよな……。またおまえに甘えすぎちまった。マジ、ごめん……」
 話が思わぬ方向に向かい、はっとして顔を上げる。
「殿下、それは……!」
 しかし咄嗟に、違う、と否定の言葉を紡げなかった。
 どう説明したら良いというのか。
 こんな生殺しのような状態が辛いなどと。
 自らの主人に、そんな単語を用いる種類の欲望を抱いているなどと。
「ごめんな、俺……ちゃんとひとりで寝るから。おやすみ」
 後ろ姿があまりにも儚げで、思わず声をかけた。
「いえ、殿下、その……」
「いいから! おまえも早く寝ろ! まだ本調子じゃないんだし、夜の間この部屋を出るな。いいか、これは命令だからな!」
 強い語調で言われ、言葉を失った。
 それでも静かに閉められた扉、廊下を駆けていく足音が小さくなっていく。
 ベルカを失望させてしまった。悲しませてしまった。その事実が重く胸にのし掛かる。

 *

 結局、一睡もできなかった。
 朝食の前に、処方されている薬湯を飲み干す。とても酷い味だが、頭の重さは少しだけ楽になるような気がした。
 丁度食堂に入ってきたベルカを見ると、目の下が少し赤い。腫れているようにさえ思える。
 ベルカもまた眠れなかったのだろうかと思うと、胸が痛かった。衝動に身を任せこそしなかったが、結果としてベルカを悲しませることになったのでは欲望にとらわれたのと同じ事だ。
 せめて、齟齬の解消だけでもしなければ。
「殿下、その……」
「ああ、リンナ、おはよう」
 声を掛けるも、さらりと挨拶のみでかわされてしまった。鉛の玉を飲み込んだような後味の悪さを覚える。
 ベルカは普段と変わらぬように振る舞っているのだが、その所作やタイミング、そのひとつひとつに違和を感じる。他の誰も、エーコですらもそんな事には気付いていないようなのが、あるいはこれは自身の心が生み出した錯覚だろうかと、余計にリンナを焦らせた。

 *

「殿下……起きていらっしゃいますか」
 一時期のような窮地は脱しているらしいとはいえ、カミーノ及び周辺地域は未だ予断を許されるような状況ではない。昼間の内は話を切り出せるような雰囲気ではなかったが、こんな違和感を明日も、ひょっとすると明後日もその先もただ抱き続ける事はしたくなかった。
 扉の向こうからは返事がなかったが、なぜだか確信を持ってリンナは何度も扉を叩き、小声ながらも呼びかけた。
 何度目かのノックの後、扉を開けられた。
「……夜の間、部屋を出るなって言っただろ」
 視線を合わせぬまま告げられ、頭を下げる。
「申し訳ございません。しかし、殿下がなさっている誤解、その申し開きだけでもさせてはいただけませんでしょうか」
 ちらと一瞬、視線を合わせられたが、くるりと背を向けられてしまった。
「殿下!」
 縋るように呼ぶと、背を向けたまま足だけを止めた。
「……んなとこに突っ立ってないで入れよ。春ったって寒いだろ」
 入室の許可の言葉にまずは安堵し、失礼しますと声をかけて足を踏み入れた。

「昨夜の件についてですが……私が堪え難いと申し上げたのは、殿下がお考えのような種類のものではありません」
 暖炉のそばの一人掛けのソファを勧められ、腰を落ち着けるとすぐに本題に入った。
「でも、俺が……ガマン、させてんだろ。夜まで一緒にだなんて甘えすぎだよな……。おまえにあんまり負担ばっかりかけたくねーって、思ってたのに」
 唇に乗せられた言葉に首を振った。
「私の思う『ガマン』と、殿下の仰る『ガマン』には差異があります。その説明の前に……まず、お話しなければならないことがございます」
「なんだ、言えよ」
 ベルカの表情は硬いままだ。

 意を決し、リンナは口を開いた。
「以前より誓いを立てておりました、忠誠とは違う想いを……、殿下に対して抱いております。恋慕の情を、──[マリーベル]ではなく、殿下ご自身に……」
 最初はそうだ。ベルカと出会うきっかけになったのは間違いなく[マリーベル]であるし、[マリーベル]が好きだから、ベルカの事も──お守りしたいと、剣を捧げたいというのとは別の方向の感情で──気に懸かるのではないだろうか、と考えていた。
 それならば納得がいった。
 しかし、そうだとしたら、それだけだとしたら説明のつかないことも、いくつもある。
 病床にあるとき、ままならぬ身体に反し、痛みや薬で朦朧としていない時は頭は冴え渡っていた。ゆっくりと考える時間も、沢山あった。
 ベルカの夢を、何度も見た。
 夢。思索。そして、キリコとの対話。それらを通して導き出した答えのひとつが、[マリーベル]ではなく、もしくは[マリーベル]だけではなく、ベルカに対し恋慕の情を抱いている、ということだ。
 だが、男が男を好きになるというのは、当たり前の事ではない。最初は自分でも、そんなはずはないと思った。しかし。
 立太子式の直前、キリコに拘束と尋問を受けていた時。繋がれたベッドにベルカが膝をかけ、乗り上げてきた。あの時の思わぬ胸の高鳴り。信用されていないのではないかと考えたときの、空虚感。
 ベルカに恋情を抱いていると認めることで、いくつもの事象に説明が付く気がした。
 すべてを告げることは躊躇われたが、説明なしに理解を求めるのは無茶というものだ。それが受け入れられるかどうかは別としても。

「……ですので、お眠りになっている殿下を……、抱きしめてしまいそうになります」
 ややあり、ベルカが口を開いた。
「おまえ……、俺のことよく知ってるようでいて、知らねーんだな」
 ずき、と胸の奥が痛む。
「──抱きしめろよ」
 続いた言葉は、考えもよらぬものだった。
「は……はぁ」
 思わず間の抜けた声を出す。
「しかし……その、本当に、よろしいのでしょうか……?」
 向かいのソファからベルカが睨みあげた。
「何度も言わせんな馬鹿」
 申し訳ありません、と口にしつつも、暖炉の炎の照り返しだけでなく朱に染まったベルカの頬を見、今のが聞き違いの類でないことを知った。
 ぱち、とひときわ大きい音を立て、暖炉の中で薪が爆ぜた。
「おまえが本調子になってから、って思ってたんだけど……、良い機会だし、今言うな」
 その音に背中を押されるように、ベルカが再度、口を開いた。
「俺……おまえの事、好きだ。嘘じゃねー」
 先に言われちまったけど、と頭を掻く。
「四六時中だって一緒にいてーし、触れ合いてーし。いつもおまえの体温を感じられてたら幸せだって……思う。だからついおまえに甘えちまった。おまえにああ言われた時、遂に呆れられちまったって、思っ……」
 声が途切れる。リンナは思わず立ち上がり、ベルカの手を引き抱き寄せた。
「ぁ……っ」
 ベルカが腕の中で小さく声を上げた。
 腕の中に、ベルカがいる。ただそれだけで、リンナは幸福感で満たされる気がした。

「なあ、今夜はここで寝ろよ」
 ベルカの言葉に素直に頷いた。
「で……あと、ガマンすんな」
 が、流石にこの言葉には言葉を返した。
「し、しかし、それでは……」
 じい、とベルカが顔を上げ視線を合わせ、そしてふいと外した。
「おまえは……いつも自分を押さえよう押さえようとしてるし、意識的にガマンしねーようにってしてる位が丁度いいぐらいだろ。……おまえになら何されたって構わねーし、むしろ……嬉しーし…………」
 最後は消え入りそうなか細い声になったが、それでもリンナの耳には届いた。
「──はい」
 そのままベルカを抱き上げようとして、しかし走る痛みに膝を付き蹲った。
「リンナッ!」
 今にも泣き出しそうな表情のベルカが目に入る。久しぶりの気の遠くなるほどの痛みに、浅く呼吸をしながらも笑んで見せた。
「申し訳、ありません……少々、調子に乗りすぎたようです」
 医術師を呼ぶと飛び出しかけたベルカをとどめ、呼吸を努めて深くする。体内に重苦しさを残しつつも、数分の内に激しい痛みは消えていった。
「傷口は、ふさがっているのですが……」
 内部、内蔵の損傷が癒えるまでにはまだしばらくかかるという話だった。
 こくこくと頷くベルカの涙を掬い、自嘲気味に笑む。
「また、殿下にご心配をおかけしてしまいましたね……」
 馬鹿、という言葉と共に、ぐいと袖を捕まれた。
「俺の……国民なんだし、たった一人の……こいびと、なんだから、心配して当然だろ! 隠してるつもりだったのかよ! そんなのって、ねーよ!」
 袖を掴む手の、その指先が白くなるほどに力が込められる。
「申し訳……」
 ありません、と続けるよりも早く、違う、と遮られる。
「そんな言葉が聞きたいんじゃねーんだ。俺は……おまえが辛いとか痛いとか、楽しいとか、嬉しいとか……そういう、おまえがどう感じてるのか、どう思ってるのか……それが知りてー。おまえは嘘は言わなくても、おまえ自身のことは全部ガマンして隠しちまうからわからねーし、わからねーから心配になったり、誤解しちまったりするし……」
 だからありのままを、出来るだけ正直に言え、というその言葉に、反論できるだけの材料も理由もなかった。
「立てるか? 歩けるか?」
「──はい、それは問題ありません」
 重苦しい痛みはあるが、ほんの少しの距離を歩くのに支障があるほどではない。
 気遣わしげな表情のベルカに連れられ、ベッドへと向かった。

 ぎゅうと服を掴み眠るベルカの寝顔を見ながら、自身に活力をくれるベルカをこうして抱きしめていれば、回復も早いだろうか……等と考え、口元に笑みを浮かべた。
「おやすみなさいませ、殿下」
 そうしてベルカの体温を感じながら、ゆるりと眠りに落ちていった。

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あとがき的なアレ
SCC新刊「KISS OCTET」用に書いた話のアナザーっぽい感じで……と思って書きました。
もうちょっとちゅっちゅしてて明確なストーリーがおそらくありますが、おおむねこんな感じです。多分。