蜂蜜檸檬



 オルセリートはベッドサイドに腰掛け、キリコの報告を聞いていた。もう、執務室まで歩くのも難儀するようになってしまった。
 自分の体が、水からあがった直後のように重い。それでも引きずるようにして歩けば、息がうまく吸えないせいで酸素が足りぬとたちどころに肺が悲鳴をあげる。こうして身を起こしているだけでも鼓動が信じられないほど速く打ち、どくどくと全身を震わせるような強い脈の感覚が気持ち悪いのだ。

「──当面、差し迫った案件は以上です。ああ、それと……テイン公の件ですが」
「いい。それはおまえに任せる」
 短く応える。靄にかかったような頭をどうにか稼働させようと張りつめていた気を少し緩め、息をついた。
「……差し迫った案件、か。ふふ」
 それ以外の案件が押し寄せてくる頃、果たして自分は生存しているのだろうか。
「お疲れでしょう。コーディアルと、シトロンをお持ち致します」
 キリコの言葉に首を横に振る。
「いい。もう──休む」
 最近ではほぼ休みっぱなしと言ってもいいくらいなのだが、どうにも体も頭もうまく働いてくれなかった。
 病は確実にオルセリートの身を蝕み、喉元にかかった死神の鎌は引かれようとしていた。
 働いていたメイドは既にみな下がらせ、立ち入りも制限をしている。ここを頻回に訪うのはキリコくらいのものだった。
「キリコ」
 おやすみになるのでしたら、と、それでもサイドボードにシトロンの蜂蜜漬けだけ用意して退室しようとしたキリコに声をかける。
「はい、殿下」
 ふわりと服の裾を揺らし振り向いた。その顔を見ないようにして言葉を続ける。
「おまえも、もうあまりこの部屋に立ち入るな」
 もしかしたら手遅れなのかもしれない。だが、以前戯れに言った言葉。『ロヴィスコの呪い』もしそうであるならば、ラーゲンの血筋を汲むキリコには感染しないものと思っていた。だが、わかっていた。それはただの甘えであると。
「何をおっしゃいますか」
 キリコが逆に、距離を詰める。一歩二歩三歩とオルセリートに近づき、ベッドの横まで歩みを進めた。
 そこでひざまずき、まるで芝居のような所作で礼をとる。
「じきに、ベルカ王子が到着します。彼は大病禍の治療法をもっている。治療を受ければ、オルセリート殿下のご体調もよくなりましょう」
 重い首を横に振る。それだけでも頭がぐらぐらして気持ち悪い。
「ダメだ……大病禍に治療法など、ないのだ……。騙されているだけだ……。それに僕になにかあれば、ベルカがこの国を……。ベルカをこの部屋に入れるなど……」
 長く言葉を続けることも苦しい。何度も息を継いでいると、きっぱりとした口調で打ち消された。
「──お言葉ですがオルセリート殿下。あなたは、ベルカ王子の何をご存知だと言うのでしょうか」
 それはいつもの芝居がかったものではない、まっすぐなことばだった。

「失礼いたします」
 オルセリートの手を取り、背中に腕を回す。顔と顔の距離をさらに詰める。
「キリコ、やめろ、離れ……」
 押し返そうとしても、病に蝕まれた身体では力が入らない。キリコのうすい唇がオルセリートのそれに重ねられ、目を瞠った。
 触れ合い、すぐに離れた唇がもう一度、もう一度と重なる。回数を重ねる毎に押しつけられる時間が長くなり、ちらりと赤い舌先で唇をなぞられたと思ったらそれが差し入れられた。
 ただでさえ強くはやく打っていた鼓動が、喉を越えて唇から飛び出してしまうのではないかと思うほどだった。
 呼吸が奪われ、気がつくとベッドに身が沈んでいた。
「失礼いたしました」
 酸素を求めて呼吸を繰り返し、息も絶え絶えにどうにか言葉を紡ぐ。
「な……なんて、事を……」
 詳細な感染経路はわからないが、ここまで深くくちづけて尚、うつらない病があろうとは思えなかった。
「オルセリート殿下、あなたと私は、伴侶……いわば運命共同体であると、あの晩誓いを立てたではありませんか」
 さきほどまで重ねられていた唇で弧を描き、キリコはふたたび礼をとった。
「あなたは私の王子です。治療を受け、回復していただかなければ困るのですよ」
 それが本心からの言葉であるのか、それとも立場的な打算によるものか──オルセリートには知る手だてがなかった。
 手袋を外してサイドボードのシトロンの蜂蜜付けに触れる。キリコはその蜜を指で掬い、オルセリートの唇をなぞった。まるで、紅でもさすかのように。
 体温でじわりと馴染むそれを舐めとると、清涼なシトロンの香りとともに甘くやさしい味がひろがり、荒れた口の中も少し癒されるようだった。
 自分の口にも一切れ放り込み、キリコが目を細めた。
「必ず……回復していただきます。今はゆっくりとお休みください」

 ゆっくりと、意識が沈んでいった。

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あとがき的なアレ
蜂蜜檸檬と書いてハニーシトロンと読んでください(キリッ
24時間で書いた「命」をちょっと編みなおしてみました。
どうもしっくりこないのでワルツに収録する時は更に編みなおすと思います。

恋愛感情の伴わないキスをさせたくて…