癒しの泉



 キミがもし、王の子であることに囚われているならば、少し王子サマをお休みすればいいんだよ、と、エーコに渡されたのは修道服だった。
 曰く、ベルカ王子じゃなくて[マリーベル]になればいいじゃない、と。ただの娘として自分の心に素直になれ、と。
 被されたウィッグを三つ編みにされ、作戦を立ててリンナを迎えに行った。あれだけ強がって助けには行かないと言っていたのに、会って触れたらそれまで押さえていた感情が決壊した。
 聞けば、ラーゲンの薬を飲まされる寸前だったという。
 命を絶とうとしたことを詫びられる始末で、もう少し遅れていたら、とか、もし舌を噛むことに成功していたら、とか、『たまたま回避できた』悪い出来事の想像が溢れてきて、いまリンナが生きていることを、隣にいることを、存在を確かめるように何度も何度も抱き合い、くちづけた。


 民を鎮めるのは容易なことではなかった。
 それでもカミーノでの治療の実績のある、そして平民を母にもつベルカだからこそ、言葉を受け入れやすいという側面もあるだろう。そう期待するしかなかった。
 かつて一度は母を逆恨みしたほど暗い陰としてつきまとっていた、母が平民であるという事実が、こんなときに役に立つというのは少し面白い……そんな気がした。

 ロンダレア領では広く温泉が涌くそうだった。
「そういえば、サナにも温泉宿はいくつもありました」
「そっか、こっからサナまで近いんだな」
 以前、アルロン伯の屋敷から王府に向かったときには海沿いの道を馬車で駆けた。クックラント街道は使わなかったのだが、サナと王府をむすぶ最短かついちばん大きな道はこれだ。
「温泉というのはつまり、自然界の力が湧き出ているのと同じことだ。その男を連れて、おまえも少し浸かってきたらどうだ」
 傷口はかろうじてふさがってはいるものの、未だ本調子とはほど遠いリンナを気遣い、新月が言った。
「このあたりで出る温泉は聖地と源流を同じにする。効果はかなり高い」

 そんな経緯で、隊を離れ、また[マリーベル]の姿をしてリンナと街を歩いているのだった。
「……別に、変装とか必要なくねーか?」
 今は大きくスリットの入ったドレスでもメイド服でも修道服でもなく、ごくふつうの街娘の格好をしている。
「よけいな混乱を避けるためには必要だと……エーコ殿はそうお考えなのでしょう」
 今やすっかり人気者である。普通に宿を取ろうとしても、おそらく難しいだろう。追っ手を差し向けられていた頃。王府で厄介者扱いされていた姿。その頃の印象を払拭するように民に歓迎され、慕われるベルカをリンナは眩しく見つめていた。

「あっ、分隊長、分隊長さんじゃないですか!」
 不意に声をかけられそちらを見やると、見覚えのある顔と目があった。サナでかつて門番をしていた男だった。
「あっ、スミマセン。ご事情があって隊をお辞めになったんでしたね。こんな大声で」
 はっとして詫びる男に、手を振って応えた。
「いや……その説は隊の皆には迷惑をかけてしまった。
それについては全面的に私が悪い。すまない……」
 眉を寄せるリンナの肩をばーんと叩く。
「なーにそんなかしこまっちゃってるんですかー! って、えっ、女連れでこんなところで、ご結婚でもされたんです? もしかして駆け落」
 門番の話好き噂好きをすっかり忘れていた。うっかり捕まってしまうと延々門をくぐれないと評判がたつほどの男だったのだが。
 そこに、ベルカが割って入った。
「すまない、リンナには……隊を抜けてからずっと、私の従者として働いてもらっている」
 [マリーベル]の変装用のウィッグを掴み頭から毟り取ると、ちゃり、とプリムシードが音を立てて跳ねた。
「あわっ、ベルカ王子殿下!? 王子殿下とはつゆ知らず、大変な無礼を申し訳ございません!」
 大変驚いた様子で立礼を取った男に対し、ベルカが言葉を続ける。
「構わない。だが見ての通り、忍んで街を歩いているところなんだ。騒がずにいてもらえると嬉しい。……それと、質素だが清潔な温泉宿に心あたりがあったら教えて欲しい」

 男の案内で行き着いた宿、通された部屋を見回す。質素、と言い切るには豪華だが大げさではなく、掃除は行き届いており、ベッドのシーツにはよくのりが利いているようだった。
 先ほどは申し訳ありません。まさか殿下ではなく、私を知る者の方に遭遇するとは」
 場を収められなければ、ちょっとした騒ぎになっていたかもしれない。
「気にすんなって。俺の方も計算外だったし。カミーノでもサナにいた家主のおじさんに会ったし、近いんだもんな」
 サナが近い、という話をしていたのは今朝方のことなのに、リンナの身を隠すことなど全く考えもしていなかった。十月隊の分隊長という役目を持ちながら、結果的に不意に姿を消し、辞表だけが送られてくる、という事態になってしまっていたのだ。知る者が見咎めたとて何の不思議もない。
「それよりフロ入ろーぜ、フロ。このあたりの湯は疲労回復とか傷を治すのにいいって言われてんだろ?」
 立ち上がったベルカに、微笑んで応える。
「ええ、英雄王が負った傷を癒すために浸かっていたと伝えられています。このあだりの温泉では湯の花がほんのり赤く色づいているのですが、それは英雄王の血を含むためと言われています」
「英雄王の血、ねえ……」
 ふとベルカは、聖地で聴いた謡に思いを馳せた。
 ライツ一世は、温泉も掘ったのだろうか。

「殿下、お背中お流ししましょうか」
「いーって。それくらい自分で……ああ、でもそうだな……うん、頼む。かわりに……」
 ふたりで湯殿に向かい、脱衣所で纏っていた衣服を脱ぐ。からり、と音を立てて引き戸を開くと、湯煙の向こうに石を組んで作った湯船がかすかに見える。
 ぱしゃ、と音を立ててそこから上がる者の姿があった。
「あらーっ、ベルカちゃんと赤毛さんじゃなーい! ハダカの付き合いなんて、ほんとになかよしさんね!」
 リンナに駆け寄ると、互いに纏う布がないことをまったく気にもせず抱きついた。
「! あのときのホクレア……のっ!?」
 駆け寄られるところまではともかく、抱きつかれるところまでは予想外で、飛びついてきた質量にたたらを踏む。
「よかった、無事だったのか!」
「私たちホクレアの戦士を甘く見ちゃダ・メ」
 くす、と笑んでリンナの頬に唇を押しあてた。
「ここの温泉は特に効果が高くていいのよ~。もちろん美容効果も抜群だから、今夜アタシと……どう? なーんてっ! きゃっ」
 言葉はわからなかったが、その口調でニュアンスはなんとなく感じ取れる。
 なんとなしに不機嫌オーラを漂わせるベルカに視線を送りつつも、やたら元気でハイテンションながらも明らかに怪我人、しかも自分が原因で怪我を負っているホクレアを強引に力ずくに引きはがす無体もできず、リンナは手をこまねいていた。
 帥門の手がリンナの肌に触れる。締まった身体の胸骨あたりをとんとんとつつきながらぽっと顔を赤らめた。
「赤毛さんって結構好みなのよね~。ベルカちゃんのためなら、怪我してても凍りかけた湖まで渡るって話、新月に聞かされてたんだけど、石の都にもそんな人がって感動しちゃったわ。うふっ。赤毛さんの為に命をかけたベルカちゃんといい、相思相愛ってステキぃ!」
 身を捻ってみせるが、肝心の言っている内容がわからない。呆気にとられているうちに、「じゃあねっ!」と声をかけ立ち去った。
「嵐のよう……でしたね……」
 ようやくリンナがぽつりと漏らす。
 ベルカは何も言わず、ただ洗い場に足を進めた。

「……怒って、いらっしゃいますか?」
 そっとリンナが訊ねる。
「……なんでそう思うんだよ」
 問い返すベルカだったが、声音に滲む不機嫌は到底隠せてはいなかった。
 ふう、と息をついて頭の先まで湯に沈む。
「あ、で、殿下」
 慌てた様子のリンナの声には応えず、浴槽の底を蹴って移動した。ほのかに濁った湯の中、乱れた水面がリンナの視界からベルカを隠した。
「ぅわっ!?」
 直後、背後からぎゅうと抱きつかれリンナは焦った声を上げた。
「大袈裟だな」
 リンナの背に頬をくっつけ、ベルカはくっと喉で笑った。
「殿下、その……いったい?」
 首を捻り肩越しにベルカの様子を伺う。不機嫌になったと思ったら、今はもう悪戯を成功させた少年そのもののような表情を浮かべて視線を絡まされた。
「別に……ちょっとお前を驚かそうと思っただけだ」
 ちゃぷ、と身を離し、背中を撫でた。もうわずかに痕を残すだけの、かつて自分を庇ったときに負った矢傷を。そして薄い皮膚で申し訳程度に覆われた、鉄柵で貫かれた部分を。未だ生々しさの残るそこをじっと見つめる。
「……殿下」
 やわらかい、唇が触れる感触。
「……俺、おまえになにか返せてるのかな」
 その言葉が震えている気がして、リンナはそっと回された手を取り、ベルカを抱き締めた。
「殿下、私をお助けいただいた事もそうですが……ここ数日で、私がどれだけの喜びを得たか、おわかりになりますか?」
 リンナの腕の中で、ベルカはただじっと息を潜めていた。
「以前殿下は……私のことを『たったひとりの国民』と仰いました。今も、そのように思われますか?」
 そうではありませんよね。という問いかけに、首を縦に振る。
「あなたが多くの民に慕われ、王の子として振る舞われるお姿を見……私は、とても深い満足を得ました。私にこんなにも大きな喜びをもたらす事が出来るのは、殿下だけです。本当に……ご立派になられた」
 王府でキリコにカミーノで治療にあたっていると聞かされたとき。薬を飲まされかける直前、ベルカは蜂起した民を止めるために発ったと告げられたとき。喜びに胸が震え、この身が枷となることを怖れた。
 それから、と言葉を継ぐ。
「これはつい先ほどのことですが、私をはっきりあなたの従者と断じていただきました」
「なっ、──そんなことで」
 驚いたように見上げるベルカに、柔らかく笑みを向ける。
「嬉しかったのです。あなたの口からはっきりそのお言葉をお聞きできたことが……いけませんでしょうか?」
「……ダメとかじゃねーけど……バカ野郎」
 逸らされた視線、その目元がほんのり朱に染まっているのは、おそらく温泉に浸かっているから、だけの理由ではないのだろう。
「あなたの従者として、あなたのおそばにいられること……私にとって、これ以上の幸せはないのですから」
 そのためにも、一刻も早く傷を完治させ、調子を取り戻さなければならない。

 ふたりが口をつぐむと、源泉の湧き出すこぽこぽという音がしずかにその場を満たした。

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あとがき的なアレ
全裸で抱き合ってたりしますけど健全です!
地図を見た感じ、サナが近いので、あとカミーノと聖地近いのできっと
このあたり一帯は温泉が出るだろうと思ったので温泉ネタをひとつ。
リンナが民や王太子直轄領衛士の皆さん(五月隊の方もそうですね)に慕われる姿を見たら
どれほど嬉しく思うだろうかとか思いつつ。

リンベルらしいリンベルを久しぶりに書いた気がします!