寄せる波
「いい風ね」
コーネリアが声をかけると、船の上の最年長者である副船長が振り向いた。
「そうだな」
口を噤みしばらく、ふたりで風の音に聞き入った。
きゅ、とコルク栓を開ける音に、男が視線を向ける。液体が満たしたグラスを受け取り、にっと笑って見せた。
「なんだ、ワインじゃないのかい?」
くす、と笑むコーネリアは彼にとって孫娘のような近しさを感じる存在だった。
「もうすぐ休憩が終わるわ。まさか今から飲むつもりじゃないわよね?」
知ってたのか、ととぼけて見せると、あたりまえでしょ、と応える。打てば響くようとはこのことか、と、目を細める。
グラスの中の果汁はそれでも上質なものであり、酒精によらずとも彼の味覚を楽しませるには十分だった。もうすぐ賞味期限が切れてしまうの、と、コーネリアがなにも聞かずとも呟いた。
「機嫌が良いみたいだの」
「ふふ……」
コーネリアが彼が後見をしているこの船の船長──ロヴィスコと恋仲であることは彼も知るところだった。
ただし状況が状況、そして場所が場所である。関係を大っぴらにする訳にはいかない。
それをロヴィスコもコーネリアも弁えている。
だが──喜びを、悲しみを、誰かと分かち合いたい時もあるだろう。
なにを聞かずともただその場にいて欲しい、高揚を、心の波を感じて欲しい時もあるだろう。
彼はかつて艦隊を束ねていた。年齢とともに身の衰えを覚え第一線を退いたものの、栄光を振り返るばかりの陸での生活よりも現場に、海の上にいたい、そう願った。
過去の栄誉とともに名を封印し、現在では囚人護送船団の副船長の役を担っている。周囲には伏せられていたが、その経歴・人柄は若き船長を支えるには適任と判断されたのだ。
老人は心の機微に敏感だった。自身の、そして互いの想いに戸惑いがちな未だ若い恋人たちを胸の裡で祝福し、それぞれをそっと呼び出した。
覚悟をするように、と告げるために。
ロヴィスコもコーネリアも聡かった。その一言の内包する意味を察知し、深く頷いた。
それから、時折こうしてどちらかと時を過ごす。
何があったのかは一言も話さない。聞き出そうとすることもない。
ただ、時を過ごし、その波に触れるだけだ。
「……邪魔したわね」
男の手のグラスが空になる頃、コーネリアが立ち上がった。まだ仄かに葡萄の香りが立ち上るグラスを受け取り、船室へと向かう。
再び男は海に視線を戻した。今は凪ぎ、船の腹を叩く波もごく緩やかなものである。
ふと、影が落ちた。
先ほどコーネリアが立ち去ったその方向からやって来たのは。
「おや、おまえさんがここに来るなんて珍しい」
「チッ……先客かよ」
手にした瓶はおそらく、いや間違いなく酒。
どかりと腰を下ろすと直接瓶に口を付けて呷った。
「あまりそんな飲み方をするもんじゃないね」
窘めると、紅い瞳でじろりと睨めつけられる。
「……っせぇ。医術師みてえな事言うんじゃねー」
今は戒めから解放されている、囚人を束ねる男──ライツは嵐の海のような心を隠そうともせずに言い放ち、その場に寝転がった。
老人は内心でひとつ息をついた。この男の波は高すぎる。いずれ自身をも飲み込むことになりかねない。
老人はライツをも気にかけていた。
囚人という立場の鎖から解放された男のこの先の未来は、老い先短い自分とは違い長い航海になるだろう。迷わず進める羅針盤と星が、この男にはあるのだろうか──と。
あとがき的なアレ
海の日なので、たま先生ブログネタで滑り込み更新んんん!
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