ロバのみみ



 王府、街区。
 大病禍の嵐に翻弄されたここも、ある程度薬湯が行き渡ったとあり、街は再び活気を取り戻していた。
 だがそれも王府の関のうちのこと。カミーノ及び王府以外の各所には未だ手だて無く失われるいのちが多くあった。ベルカとしては一刻も早く外へ出、病める者に薬湯とシトロンの手配をし、また約束通りカミーノに戻りたくてたまらないところだったのだが、キリコにそれを阻まれたのだった。
 王府のうちに居てもその手配をすることは出来るというのがキリコの主張だった。みすみす自らの身を危険に晒さずとも、指示をすれば動いてくれるものだと。ベルカにはまだ若干の抵抗があったが、ひとの上に立つ者としての振る舞いはカミーノで多少なりとも身に沁みていた。
 あるいは薬湯の配合を知った以上は用済みと殺される事もあり得るかと身構えたが、オルセリートの言葉によれば、病の兆候のあった時点でベルカの手を借りるよう進言したのは、むしろキリコの方だったという。
 それらを鑑みるに、キリコ本人にも少なくとも、今は害意がない、ようだ。
 また、オルセリートの病状も気にかかった。王太子であるオルセリートの体調が思わしくない今、民に対するパフォーマンスを出来る者が彼に次ぐ継承権を持つベルカしかいない、と。
 パフォーマンス。不安で震える民の心を和らげる為のそれの重要性は今ではベルカもよく知るところだった。
 ヘクトル暗殺の件について許すつもりはないが、ベルカが王府にとどまることが民のためになるならば、一時手を組むこともやむを得ない。キリコの言うように元老がベルカを利用しようとしてその身を狙っているのだとすれば、王府から逃げ自身の領邦すらも放り出し、自らの身のみを守るためただ山奥に引きこもっている元老らに利用されるよりはずっとましだ。
 そんなわけで、最終的にベルカはいったん王府に身をおくことを決断した。

 *

「リンナー。もっと強く締めても大丈夫だぞー」
 っていうか、ぜんぜん締まっていない。
「こ……こう、でしょうか?」
 先ほどよりは手を入れてはいるようだが、遠慮が勝ちすぎているのだろう。エーコような容赦ない締め方にすでに身体が慣らされていたベルカにとっては若干物足りなくさえあった。
「もっとぎゅーって引っ張っていいって。苦しかったらそう言うから」
「で、では……失礼いたします」
 さらに力が入れられる。締まる感触に吐息が漏れる。
 気遣わしげな声を上げるリンナに、大丈夫だと手を振って応える。
 つけている最中はもうあまり気にならなくなってきていたが、やはりコルセットを締められる瞬間は若干の苦痛を伴った。
「ん……それくらいでいい、たぶん」
 リンナが紐を縛ってしまうのを待ち、軽く身を動かして馴染ませる。
「ちょっとゆるい気もするけど、まあ入るだろ」
 そうして脇に置いてあったパニエにずるりと足を差し込む。リンナが用意したワンピースをふわりと着せかけ、後ろにずらりと並んだボタンをひとつひとつ止めるのをじっと待った。
「終わりました、殿下」
 最後の仕上げに長髪のウィッグをかぶる。
 地毛とそれを馴染ませれば、どこからどう見ても美少女だ。尤も、立ち居振る舞いには多少の難があると言わざるを得ないが。
「おかしいところはないよな?」
「ええ、今日もとても愛らしいです。マリーベルさん」
 だがリンナには、ふいと目をそらすそのさまさえもとても愛しく感じられた。

 簡素なワンピースの姿で、あたかも街娘のような風体で街に出る。リンナも上着は着ず、服装だけを見ればふたりともそこらの庶民と変わらない。
「デート……の、フリだからな。大げさなくらいで行くぞ」
 そう言いリンナの腕に自身のそれを絡ませるベルカの頬はほんのりと染まっており、リンナは改めて思うのだった。とても愛らしいです、マリーベルさん。と。
「ええ……これも殿下の御身を隠すためですからね……」
 そう言ってリンナが『マリーベル』の腰に腕を回し、抱き寄せた。
「ちょ、おい……」
 焦った声を上げる『マリーベル』の目をじっと見つめた。
「お嫌、ですか?」
「バカ……」
 そんな訳あるか、と呟いた『マリーベル』の目がそっと伏せられる。ふたつの唇が重なった。

 *

 どこかにきっと黒の目があるのだが、ある程度遠くにいるのだろう。気配は完全に街に溶け込んでいた。あるいはリンナならば、感じ取れるのかもしれない。が、ベルカ──『マリーベル』にはそれは出来そうになかった。
 ふう、と息を付き『マリーベル』はリンナに軽く体重を乗せる。
「お疲れですか?」
 問う声に、さっき城を出たばっかりだろうと頬を膨らます。足元がふらつくのは、存外に深かった先ほどのくちづけのせいだ。点された灯がいまも身のうちで『マリーベル』を灼いている気がする。
 リンナが涼しい顔をしているのが不満で、ぎゅうとその腕にいっそう強くしがみつく。
「マ、マリーベルさん、その」
 先ほどはあんなにも激しく口接けた癖に、これだけで頬を染めてどぎまぎしているリンナを見上げ溜飲を下げた。
「ほら、行くぞリンナ」
 唇を笑みの形にし腕を引く。端から見ればまるで恋人に甘える若い娘のようだった。
 ただし、街の者は皆その少女の正体を知っていたのだ。
 彼女──彼の方こそ、ノクティルクス王家第三王子ベルカその人だと。
 ただし、そのことはベルカにも、ひいてはリンナにも知らされていなかった。
 民のために尽力してくれている、『庶民派』の王子が御自ら、随伴たった一名とともに街へ出、庶民と同じものを口にしたいと言ってくれているのだ。そして食べるときのその表情たるや、料理人冥利に尽きる笑顔。心底満足した様子で城に戻るのだ。
 もし正体がばれたることによって、その身の自由が奪われてしまうようなことがあれば、さぞ残念だろう。街の民もそれは望むところではなかった。
 ならば街ぐるみで、その正体に気付いていないフリをしよう。もしも『マリーベル』が店を訪れたなら、失礼はないように。でも過剰なサービスやほかの客を蔑ろにしてまでの歓待をすることのないように、気付いていることを悟らせぬように。それが、王府ノイ・ファヴリル街区に店を出す者たちの、ベルカに対するせめてもの配慮だった。

「ほら、いらっしゃったよ。ベルカ王子だ」
「バカ、マリーベルさんって言えって」
 密やかな会話が交わされる。リンナと『マリーベル』がこの日最初に訪れたのは、パイなどの焼き菓子を売る店だった。
 シャムロックとミュスカがほぼ外との関わりを断絶されているような状態になってしまっているため、ふたりのためになにか差し入れられるものを、というのが大義名分である。
 実際はというと、ベルカ自身が食べたいというのも多分にあった。
 店の隅にしつらえられた客席。焼きたて熱々のスイートポテトパイの上にのせたバターがじんわりと溶けだしていくさまを目でも楽しみながら一切れ、また一切れと食べる。湯気を立てたままのパイが見る間に減っていく。
「マリーベルさん、……失礼します」
 身を乗り出し、ハンカチでそっと『マリーベル』の頬を拭う。
 カップに紅茶を注ぎ終えた女将が、空となった盆を携え静かに店の奥へと戻った。
 結局一ホールをたいらげ、土産用に二ホール、と注文をして二人は店を立ち去った。
「なあ、本当の恋人同士みたいじゃなかったか? それにあんなかわいい子が本当に王子だって?」
 噂には聞いていたものの、店主が『マリーベル』を実際に至近で目にしたのは初めてだった。一切れも残さず綺麗に空になった皿をまじまじと見ながら、今の信じ難い事態を反芻していた。
「鼻の下伸ばしてるんじゃないの。王子サマの従者サマってのも大変だねえ」
 先ほどのやりとりを思い返しながら呟く女将の口振りに、口には出さなかったが内心で店主は反論した。
 仕方なくやってるにしちゃあ彼氏役の方はずいぶん楽しそうに見えた、と。

 ミュスカ用のパイの選定を終えた『マリーベル』そしてリンナが次に向かったのは、すっかり歩きなれた屋台の立ち並ぶ通りだった。
「あっ、あれあれ。あそこのなんか炙ってる肉と野菜挟んでちょっとピリ辛のたれかけた奴、前にも一緒に食っただろ。甘いもん食ったからあれがすげえ恋しくなっちまって」
 そんなことを言いつつ、すでに形成されている列に並ぶ。『マリーベル』の姿を見、はっとした表情を浮かべた者も何人か居たが、不躾な視線を送ったり、畏まって順番を譲ることはしない。
 敢えてそうすることが、ベルカにとっての静かな歓待であるのだ。店を出す者のみならず、そこに住まう者みなにその思想が浸透していた。
 そうして『マリーベル』の前では気付かぬ振りをしておいて、後で家族や友人などに、その姿を垣間見た話をして悦に入るのだ。ふたりが今並んでいる屋台の店主などは、『マリーベル』が二度も訪れたと鼻が高いだろう。
 また、『マリーベル』は美味いものが好き、転じて『マリーベル』来訪の店は混む、という現象が発生した。これは大病禍で打撃を受けていた王府の経済を活性化させるにはよい影響を与えた。また、王族が自ら街を歩くというだけで、病の恐怖は減じられるものだ。
 店はこぞって美味いものを作ろうとし、そして『マリーベル』が食べて歩いた後には列が出来た。食べたものが気に入ればまた近いうちに来る。その繰り返しで、王府の活気は当初見込まれていたよりも随分早く戻った。
 表には出さないものの、皆が『マリーベル』の存在を歓迎していた。
 甘えた風に腕を絡めリンナに寄り添う姿を、ある者は微笑ましく、ある者は従者に同情の視線を向けた。実際には、リンナにはまさに役得だったのだが。

 あらかたの『巡回』を終え、人通りのだいぶ少ない裏道に入る。
「マリーベルさん、」
 途切れた言葉の代わりに腰を抱く。人目を気にしつつも、全く無いところでは『演技』の意味がないと、幾人かには目撃されるように。
 その日何度目かの口接けを交わし、『マリーベル』が息を付いた。
「城……戻る」
 揺らめいた瞳の奥、深い色のそこには確かにリンナが映っていた。

 *

 ぎし、と寝台が悲鳴を上げる。
 重ねた手、指と指が絡まる。
 パイを温かいうちにミュスカに届けるようにルツに指示し、ウィッグを外しもせず、ベルカ──『マリーベル』はリンナを求めた。
「は……っ」
 重なった唇が離れる。その刹那に息を付く。
 身のうちに点った情欲の炎を隠すこともなく、何度も何度も深くくちづける。まるで、自身に火を点けたリンナに意趣返しをせんと言わぬばかりに。
 閉め切った部屋が、吐息と水音で満たされていった。

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あとがき的なアレ

 8月インテの無料配布本「ロバのみみ」です。
 在庫がなくなったし10月になったしってことでWeb再録。
 この時点ではまだ9月号までしか読んでなかったので、若干原作とずれがありますがそこはそっと流してください…。
 本のほうでは冒頭にちょこっと前置きがあったりしました。