壁を崩して



 膝の上で本を読み始めたのはいつ頃のことだったろうか。次第にその瞼は重さを持ち、いつしかベルカはリンナの膝を枕にすやすやと寝入っていた。
 いくらベッドの上とはいえ、こんなところで寝づらくはないのだろうかと思う。目が覚めたら首を痛めているよりは、今起こしてしまった方が良いのではないだろうか。しかしこの心地良さそうな寝顔を見ていると、その睡眠のじゃまをするのもはばかられる気がする。
 不意にその手がもぞりと動いた。
 内股に触れられ、思わず妙な声を上げそうになるが、なんとかそれをとどめる。
 動き回っていた手が上衣のシャツの裾を握っておとなしくなり、ふと頬を緩めて息をついた。膝の上の主君を見下ろす。
 ほんのりと足を温める寝息は規則正しく、新月が言っていたように眠れなかった様子などまるでわからない。
 だがまさか、いくら何でもそれが方便ということもあるまい。
 安心しきった様子を見ていると、リンナまで穏やかな気持ちになってくるようだった。
 またこれから先、この方と共に在れるのだ。そんな実感がリンナの胸を温める。
 腰のやや上、申し訳程度にかかっていた上掛けをそっと引き寄せる。肩まで覆うと、ベルカが僅かに呻いた。
 はっとして身動きを止める。起こしてしまっただろうか。
 だがそれも一瞬のことで、じきに再び規則正しい呼吸が耳に届くようになった。そのたびに動く肩を、光を弾く黒い髪を、愛おしむような慈しむような眼差しでリンナは見つめた。
 その時、またベルカの手が動いた。
「……ッ!」
 思わぬところに触れられ、堪えきれず身じろぐ。
 二度三度と緩やかに、しかしはっきりと力を入れられ、たまらずその手を止めようと、握る。が、それでも主の手は動きを止めようとしなかった。
「で、殿下!」
 流石に眠っているようには思えず、声を上げ制止しようとするも、もぞりと身を起こしたベルカにそのまま組み敷かれてしまった。
 勿論、いくら怪我が治りきっていないとはいえ、ベルカの動作を止められぬ訳ではない。
 ベッドの端に腰掛けその膝の上にベルカが身を横たえていたのだ。
 下手に振り払おうとすれば、ベルカが落ちてしまう。そう思った末の判断だった。
 だがその理性的な判断は、ベルカからは余計に理性を取り去る行為であったようだった。
「リンナ……」
 熱の籠もった視線で自分を見ているのは確かにベルカの筈で、だがなんだか少し様子がおかしいようだった。
 戸惑いを意に介す様子もなく、ベルカはリンナの唇に自分のそれを重ねた。
「……ッ……!」
 初めて味わうベルカの唇は、女のような柔らかさはなかったが、とても、とても甘美なものに感じられた。
 角度を変えちゅ、ちゅ、と唇が触れては離れる。次第にそれは深いものになっていき、貪られる。
 この甘い時間にただ身を委ねてしまいたい気持ちを抑え、回した腕でそっとベルカの背を叩く。
「殿下……殿下? その……突然、どうされたのです」
 正直、嬉しい。嬉しくないはずがない。
 だからこそ、はっきりさせておきたかったのだ。
 いったい、誰と間違えているのかと。
「リン、ナ……?」
 だが紡がれた名はリンナ自身のもので、ベルカは、熱に浮かされたような目をしたベルカは、リンナのその反応にこそ戸惑いを覚えているようだった。
 それからひとつ瞬きをして、はっとした様子でリンナの上から跳ね起きた。
「リンナ……リンナ! ごめん! マジ……ごめん!」
 その慌てように、逆にリンナが焦る。
「あ、いえその、私は……どうか、お顔を上げてください」
 必死な様子で頭を下げるベルカを慌てて制止する。
 やはり寝ぼけていらっしゃったのか、他の誰かと間違えていたのだろう。ちくりと痛む心を無視し、そう納得しようとした。
「ごめん……あのな、俺……おまえに、まだ言ってねー事があるんだ」
 震える声は先ほどまでの様子とは打って変わって弱々しく、リンナは思わずその身体を抱きしめたくなった。
 だが、おそらくは。
 離れていた間に、良い仲の相手ができたのだろう。そう考えるのが自然に思えた。
 自らが抱いている想いは主人に対するものとしてはあまりに不埒で、不適切だ。そいいう風に自分を納得させようとした。
「俺……おまえに会えなかった間、何度も何度も……夢を見たんだ。おまえの夢」
 だから目を覚ますのが辛くて、それで……眠るのも怖くなった。
 ぽつりぽつりと語られる言葉に胸が締め付けられる。その息苦しさに、リンナは自分が呼吸を止めていた事に気づいた。
「そんなのが、何ヶ月も続いてたから……おまえがそばにいてくれると、安心して眠れるけど、そうじゃねーと今でもまだ……よく、眠れねーんだ」
 目の前の主を抱きしめたいという衝動がいや増し、リンナはそれでも必死に自分をおさえた。
「それで……夢の中で、おまえに、たくさん……酷い事、した」
 酷い事というのは何だろうかと思いを巡らせる。他に方法がなかったとはいえ、主人のそばを離れることになってしまったのだ。悲しませ、救出のためその身を危険に晒させてしまいさえした。責められても仕方のないことをしたのだ。少なくともリンナはそう思っていた。
「夢の中のおまえはいつも笑ってて……俺が、どんな事しても……ッ」
 声を詰まらせるベルカの背にそっと触れると、びくりと身を震わせ、俯いていた顔をあげた。
「リンナ!」
 けして大きい声ではないのだが、絞り出されたそれはまるで悲痛な叫びのようだった。
「はい、殿下」
 居住まいを正し、次の言葉を待つ。
「俺、おまえが好きだ。……いや、好き、なんて純粋な気持ちじゃなくて……おまえを、抱きたい、って思ってる。夢の中で……何度も、おまえを貫いた」
 ごめん……。そう言うベルカを、リンナはそっと抱きしめた。もう我慢などしていられなかった。
「夢の中の私は……殿下を受け入れられましたか?」
 かっと頬に朱が走る。だがベルカは、それが責だとでも言うように言葉を紡いだ。
「夢の中のおまえは……キモチ、良さそーで、だから俺、何度も、なんども……」
「ありがとうございます、殿下」
「なんでだよ! なんでそこで礼なんて……おかしーだろ!」
 微笑みさえ浮かべるリンナに、ベルカが勢い良く食ってかかる。だがリンナはいいえ、と首を横に振った。
「嬉しいです……嬉しいと思ったから、感謝の言葉を口にしました。おかしい事でしょうか?」
 あなたと初めてお会いしたあの時から私は、ずっとお慕いしているのですから。あなたが……私をそいいう目で見てくださったというのがとても……嬉しいのです。
 いったん言葉を切り、真剣な目をしてリンナははっきり告げた。
「もしそれが……殿下の望みでしたらば、夢でされたように……私を、あなたで満たしていただけませんでしょうか」
 だがベルカは首を縦に振ろうとはしなかった。
「無理、してんじゃねーよ。だいたいおまえが好きになった『マリーベル』は、おまえを抱くんじゃなくておまえが抱きたかったんだろーし」
「いいえ、殿下。私は……私にとっては、そんな事は大した問題ではないのです。あなたに求められ……あなたのものにしていただけるなら、それが、嬉しくてなりません」
 ふ、と目を伏せる。睫毛が影を落とす。
「私はずっと……この想いは、一方的なものだと思っておりました。ですが、もし……そうでないのな、私は……あなたと」
 言葉を切り、ベルカの目を覗く。薄闇の中では色まではっきり感じ取ることは出来ないが、その瞳は凪いだ海のように穏やかに光を湛えていた。
「申し訳ありませんが、私にはそちらの経験はありませんもので、すぐにうまく……殿下を、その、迎え入れることが出来るかはわかりかねますが……」
 かたく握りしめられたままのベルカの手を取り、口接けのお許しをと囁けば、そんな事をいちいち訊かなくても良いと返答があった。いつぞやしたように甲に唇を触れさせ、手を取ったままその主を見つめる。
「お情けを、頂戴したく存じます」
 ベルカはリンナに取られたまま結んでいた拳を解き、リンナの手をぎゅうと握り返した。自身の持つそれよりも彼の手は温かく、リアルな温度がこれは夢ではないとベルカの五感に訴えた。


 現実でのくちづけは夢の中でのそれのように柔らかくはなかったが、その口腔内の湿った感じも、温度も、現実にしか無いものだった。
「殿下……」
 組み敷いた身、あまり腰から上の方には体重をかけぬよう注意しつつ覆い被さる。この体格差ではその表現もすこし違和感が残る。
「好きだ、リンナ……おまえが欲しくて、欲しくて、たまんねー……」
 そう言って、シャツのボタンを外す。
 リンナが手を伸ばしベルカの頬に触れる。その指はゆっくりと首筋を辿り、今まさにベルカがリンナにしているように、その着衣のボタンを外し始めた。
「私はとうに……あなたのものです、殿下」
 はじめに心を奪われた。それから命を捧げた。今度は身体を差し出す。難しいことではない。それだけのことだ。
 それだけの、だがたまらなく嬉しい、ことだ。
 勿論、不埒な妄念を抱いたとき、ベルカに抱かれる前提でいたわけではない。だが、心を通わせ、体温を蕩け合わせるひとときをともに過ごす事が出来るなら、その差はあまりに些細だ。普通の男ならば組み敷かれ女役に回るというのはともすれば屈辱なのかもしれない。だがリンナにとってはそうではなかった。ベルカに求められるならば、抱かれることも間違いなく喜びなのだった。
「リンナ……」
 熱の籠もった声が、その声を乗せている吐息が肌を滑る感触が、たまらなく心地よい。
「はい、殿下……」
 いつしかリンナ自身の声も熱を帯び、少し掠れていた。その声を聞きベルカの熱が更に煽られる。何度目かもわからないくちづけを交わし、汗が浮いた素肌を触れ合わせる。
 夢では肌を合わせていたとて、男同士、互いに初めての身では容易に行為に至れるはずもなく、何度も失敗した。
「──申し訳ありません、殿下……」
 幾度目か、押し入る痛みを堪えはしたものの、先端を飲み込むことすら出来ずベルカが離れたのを感じ取り、リンナが消沈した様子で言った。すでに月は天頂を越え、明け方に近い時間となっていた。
「おまえが、謝る事じゃねー……」
 何度も苦痛を強いた挙げ句に結局目的は達成できていない、ベルカの方こそがリンナに謝りたかった。
「しかし……」
 と、リンナがベルカのものに触れた。
「私などに、このように反応してくださっているのに関わらず……お気持ちに、お応えできず」
 苦しげに言うリンナを、ぎゅうと抱きしめた。
「バカ言うんじゃねー……気持ちには、応えてくれただろ」
 自分も相手も鼓動が速い。そのことが余計に胸の高鳴りを加速させる気がした。
「今しかない訳じゃねー。これからずっと一緒にいるんだから……今夜出来なくたって、少しずつだって、いいだろ」
 夢でないならば、そこには連続性がある。現実を挟んだ夢では先に進むことは出来ないが、夢を挟んだ現実ならば歩んだあとには確かに道がある。昨日の軌跡の先を辿れば今日に、そして明日に続いている。
「それに、続き、が……先に待ってるのも、楽しみだろ」
 直に皆も目を覚ましてしまう。今夜のところは行為に至るのはあきらめて少しでも身を休めようと、そういう提案だった。
「はい、──それでは」
 寝室を退がろうとしたリンナを押しとどめる。
「どこにも行くな……」
 戸惑ったのもほんの数秒。リンナはゆっくりと表情を崩した。
「では……殿下の安眠のため添い寝差し上げていたところ、うっかり眠り込んでしまったと……もしコール殿や新月殿に問われたらそう言い訳でもしましょうか」
「おまえ、結構言うようになったよな」
 悪巧みをする子供のように視線を絡め笑いあう。
 その確かな温もりを感じながら、短い眠りに落ちていった。

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あとがき的なアレ
ベルリンの壁崩壊祭りで書いたベルリンです!
初めてなのでうまくいきませんでしたパターン大好きです