絵空事のような



 この地にたどり着いてからどれだけの時が経ったのだろう。海の上にあった時間よりは、長い時を過ごしただろうか。
 どうやら滝の下の世界にも四季はあるようで、最近では昼の時間が短くなってきていた。
 元囚人と船員の隔たりは、一部を除いてはだいぶ解消された。ロヴィスコやコーネリアを含む親ホクレア派と、反ホクレア派。
 コーネリアにしてみれば、『なんか気味悪ィ』なんて理由で交わりを絶つなどというのは信じられないことだった。たとえば医療行為ひとつとってみても、ホクレアの薬草と、トライ=カンティーナの技術。どちらか片方よりも、両方を使う方が良いに決まっている。
 それに未知の何かに触れるというのは、とても心をわくわくさせる。
 好奇心と探求心がなければ、人間だって進化してはこられなかったのだ。


「あら……おめでとう、コーネリア」
「えっ?」
 診療所を訪れた彼女にかけられた祝福の言葉に、しかしコーネリアは戸惑うばかりだった。それもそのはず、何せ祝われる理由が思い当たらない。
 当惑の視線を受け、ホクレアの女は不思議そうに首を傾げた。
「……自分でも、わからないものなの? 赤ちゃんを授かったのよ」
「赤ちゃん……? 私が……?」
 確かに月の障りが遅れているとは思っていたが、まだそう気にすることもない程度の範囲だと、思っていた。
 ホクレアの持つ不思議な力は世界に息づくものと心を通わせることができるのだという。
 自身の中に、自分とは違う命が宿ったのだと知らされ、コーネリアはとても不思議な気分になった。
 照れるような、誇らしいような。
「そうよ。他に誰もいないじゃない」
 くす、と笑う。つられるようにコーネリアも笑いだした。

 小さな診療所を開いてはいるが、もちろんそれだけで食べていく事は少々困難だ。今はコーネリアが診療所を開き、ロヴィスコが狩猟や採集を行っている。
 弾薬には限りがある。かつてのように補給が出来るわけでもない。ホクレアのように弓矢や投石で獲物を仕止められるようみな習ってはいるのだが、なかなかうまくはいかなかった。
 何せまず身体のつくりが違う。いや、大まかにつくりは同じなのだが、地力が違う。
 あるいはそれは、文明というものに慣れすぎていた『元・トライ=カンティーナ人』の身体的な退化のせいかもしれなかった。
 秋から冬に移り変わろうとする季節。昼はそれでも薄物1枚で凍えることはないが、そろそろ夜は冷える。
 先ほど診療所を訪ねてきた女性が手に負った火傷の治療を済ませ扉の外で見送ると、風の冷たさを感じた。自分一人なら気にならない程度ではあるが、これからはもっと身体を大事にしなければ。
 まだいまいち実感のない、見た目にもまったくわからぬ腹を、その奥で息づいているのだろう命にそっと触れるように撫でた。

 庵を結ぶときに暖炉を作っておいて良かったわと、ひとりごち枯れ枝を集めてくべた。
 火は絶やさないようにしている。ここには、トライ=カンティーナならばどんな店でもほぼ必ず扱っていたような、手のひらに収まる程度に小型で、誰でも簡単に火を起こせる装置はないのだ。
 野生動物はご多分に漏れず火を避けたし、調理にも水を蒸留するのにも火が必要だ。それに、こちらで採れる光枝鉱のそれはけして強い光ではない。
 純度の高いものほど強い力を放つらしいので、仮に今後、精製技術が向上すればもう少し強い光を得られるのかもしれないが、少なくとも今はまだ、火と比べるべくもなかった。
 この地の夜は暗い。
 ホクレアやコンコロルに言わせれば、
『夜は暗いものだ』
 そう一笑に付されてしまうところであるが、トライ=カンティーナ出身であるコーネリアには未だ慣れないところもある。

「ただいま、今日は丘の向こうまで行ってきたよ」
 庵のドアを叩いたのは、果たして待ちわびていた相手だった。
「おかえりなさい」
 靴の紐を解くため屈んだロヴィスコの頬に口接ける。
 外を走るため足を守る靴と、内で寛ぐ靴は違うものなのだ。
 靴よりも、分厚い靴下やスリッパに近いそれを足に装着し、ロヴィスコはコーネリアを抱きしめた。
「暖炉に火を入れたのか。最近夜になると冷えるからな」
 ちらりとそちらを見遣り、コーネリアを気遣うように視線を戻す。
 ええ、と頷き、コーネリアは昼間に言い当てられた内容をロヴィスコに告げた。
 ロヴィスコの反応は大方コーネリアの予想通りだった。
 飛び上がらん勢いで喜ぶことも、過保護なまでの気遣いを見せることも、まだ見た目になにの変化もない腹に、さかんに耳を押し当てて様子を探ろうとすることも。まだ性別もわからぬ子供の名前を真剣に考えだすことも。

 このときが、二人の幸せの絶頂だった。

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あとがき的なアレ
いい夫婦の日記念のロヴィネリです!
冬コミ新刊、1冊は無事脱稿な雰囲気なので明日からはリンベルリン!