神父と吸血鬼

 山のめぐみをいっぱいに封じ込めた雪が解けた水は、植物の生長にとってはまたとない恵みだ。
 それをいっぱいに吸い上げた葉は穏やかな早春の日差しを求めるように風に揺れる。そこで黒髪の男が庭仕事をしていた。
 動きやすいようにとの配慮か黒一色のキャソックの膝から下のボタンを開け、首から十字架を提げた姿から、彼がこの小さな教会の神父であることは疑いようもなかった。
 手にした鋤を置き、神父は抜けるように青い空を見上げた。芽吹きはじめた木々の枝々でふちどられた空は、朝の靄で未だ水色に見えた。とはいえその向こうではいくつかの小さく千切れた白がゆっくりと流れる以外に降り注ぐ光を遮るものはなく、うららかな一日を予想させるに十分だ。頬を撫でる未だ冷涼な風は、汗の滲んだ身には心地よい。
 ふと、視界の端にふわりと揺れるドレスを目にしたような気がした。こんな早朝に訪れる者は珍しいが、皆無ではない。大事ななにかがある日の朝、教会で祈ってから向かう者も時折ある。

「何かご用でしょうか、どうぞお入りなさい。ここは教会、すべての信徒に開かれた場所です」
 春の日差しのような柔らかな声音で紡がれる、その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、キャソックの裾が大きく翻った。
 背を強く地面に打ちつけた神父が取り戻した視界には、金色に揺れる髪と牙の除く赤いあかい唇が大写しになっていた。
「最近の神父は随分と無用心なのだな」
 若草色の軽い生地のドレスとボンネットを纏った少女が、およそ少女らしからぬ口調で嗤った。
「おまえは…」
 神父は絞り出すように言葉を紡いだ。
「ヴァンパイア、か……」
 ご名答、と少女の姿をしたヴァンパイアは巻き毛を揺らめかせた。
「おまえは、ラーゲンだな」
 違う、と神父は首を振った。
「私の名は……ナサナエル=ティオだ」
 ふん、とヴァンパイアは再度唇を歪めた。
「ティオは僧籍に入った者が名乗る、いわば立場を表すものにすぎないだろう。ぼくはおまえの生まれの話をしているんだ」
 眇められた瞳を直視しないよう、ナサナエルは視線を伏せて観念したように頷いた。

 *

 神父――ナサナエルは、かつてヴァンパイアが惹かれあい焦がれた末に手にかけた男の子孫であった。
 この地における原初のヴァンパイアは、とある男と心を通わせたが、同じくヴァンパイアとして生きぬかと問われた男は結局、自らが長くを生きるのではなく未来を子孫に託してつなぎ、歴史とともに朽ちることを望んだ。
 女を愛する男の姿に嫉妬に駆られ、原初のヴァンパイアは当初の予定のように男をヴァンパイアにするのではなく、自らの手でその存在を壊してしまう。
 夫を亡くした女の、ヴァンパイアに対する強い怨みと警戒心が彼女の子孫にヴァンパイアハンターとしての特異な能力を宿らせた。力の大小はあれどあらゆる手段で身をまもってきたため、今日まではその毒牙――文字通りのヴァンパイアの牙を免れていた。

 先代の当主は多くの胤を蒔いたが、後継者に恵まれたとはいえなかった。
 長男であるフランチェスコは力を顕現させるための媒介とされる黒い髪を持たなかった。そlのため、ヴァンパイアとヴァンパイアハンターの存在と能力を感じ取るだけにとどまり、とうの昔に出奔した。
 そして次男がナサナエルである。ナサナエルは髪の色こそ黒かったものの、何の力も持たずに生まれてきた。
 ヴァンパイアの存在というのは、神の意思を否定する、存在そのものが悪であるといわれ恐れられている。
 薬学者ラーゲンの家の裏の顔はヴァンパイアハンターの名門でもあったが、ヴァンパイアハンターそのものが『神の意思を否定するヴァンパイアの存在を肯定することはまた、神の意思を否定することに他ならない』という逆説的な理由によって、その事実は公然たる秘密となっていた。
 ゆえに、ラーゲンの家に生まれながらヴァンパイアハンターとしての力を持たずに生まれた彼にはその名が付けられたのだ。
 すなわち、『神の賜物』と。
 能力の顕現には個体差があるが、男女とも二次性徴を迎える頃には能力者とそうでない者は色分けされる。
 それこそが召命であると、どれだけ伸ばしても力の宿らなかった髪を短く切り、洗礼を受けた。
 ラーゲンの家の、しかも私生児という出自から当初は倦厭する者もあったが、ナサナエルは敬虔に神に奉仕した。この教会で、神父としてミサなどの秘跡を司るようになってから二年ほどになろうか。
 ヴァンパイアの姿を実際に目にしたのは初めてだった。

「夜でもない時間に、これだけの薬草を植えた庭に踏み入るヴァンパイアなど、そうはいない」
「そうだろうな」
 ヴァンパイアハンターとしての能力を持っていないといえど、曲がりなりにもラーゲンの家に生まれたのだ。吸血鬼に対抗する手だては皆無ではなかった。
 教会の庭に植えられている植物の多くは、かつて実際にヴァンパイアに対しての効力を見せたものだ。
 原初のヴァンパイアは男を手にかけてから数十年後、金色の髪に見惚れた娘を妻にした。
 かつて心を通わせた相手の妻の面影を感じ、半ば復讐のつもりで彼女を手篭めにしたのだが、彼女のひたむきさと気立てのよさに次第に心を融かされていったと伝えられている。やがてヴァンパイアと娘の間には子も何人かできるが、ヴァンパイアの力は遺伝上は劣勢であり、生まれた子は普通の人間と変わらぬように見えた。
 その後交雑を繰り返し知れたことだが、特に生まれて間もないヴァンパイアには弱点が多く、その因子の顕現した幼子は育ちづらかった。
 だが逆にいえば、生き残った子は、種々の弱点への耐性を持っているということになる。ナサナエルに圧し掛かっているのは銀と十字架、それからある程度の日光や薬草への耐性があるヴァンパイアだと知れた。
 祖先にゆかりのある血は格別であるため、ラーゲンの魂に惹かれると言われている。だからこそ、自衛の為にもヴァンパイアに抗する知恵を蓄え、技術を磨いてきたのだ。
「女も男も……快楽を碌に知らぬまま生きてきたのだろう」
 加え、ナサナエルは神父として魂を磨いていること、女と交わらず清いからだである。只でさえ因縁の相手、その上混じりけのない高潔な魂を持つ者の血は、ヴァンパイアにとっては極上の雫だ。
「おまえに血を吸われた場合、私はどうなる」
 とはいえ、おとなしく為すがままになるつもりはなかった。ヴァンパイアには弱点がいくつもある。いくつかを克服しているといっても、完全無欠ではないかもしれない。徐々に朝霧が消えてゆく。手だてはないかと必死に考えた。
「それはぼくの眷属になりたいという意味か?」
 違う、とナサナエルは土の上で首を振った。
「この街の民に……神の道を示すことが私の使命だ」
「民か……そんな弱い存在の何が良いものか」
 それは期せずして、原初のヴァンパイアがナサナエルの祖先に問うたものと同じ質問であった。人であることを捨て、永遠の時を共に生きようと。
「ぼくのものになれ」
 耳元に囁きかけられ、吐息の熱にナサナエルの肌が粟立った。
「断……るッ!」
 辛うじて片腕を伸ばし、落ちていた鋤を引いて桶を倒した。
 中に満たされていた水が流れを作り、それがナサナエルに達する寸前、ヴァンパイアがそこから跳び退いた。
 流水もまた、ヴァンパイアが苦手とするものである。効力があったことに安堵した。ナサナエルのキャソックも泥水の染みだらけだが、血を吸われることに比べれは随分マシなものに思えた。
 

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あとがき的なアレ

たま先生ブログの吸血鬼オルセリートと神父キリコのネタに萌え転がったあげく
こんな出会いシーンとか色々捏造しました。
時間がないのでとりあえず出会いだけハロウィンに間に合わせたわけですが
このあと神父キリコがオルセリートに洗礼を受けさせようとしたりとか
銀のナイフで自分の掌を切って血を与えるシーンとか
ベルカを見出したフランチェスコがリコリス姐さんのもとで修行させるとか
ヴァンパイアハンター・リーゼロッテの活躍とか
ブログの件のシーンの後のハンターサイドとオルセリートの対立とか
そういうハートフル()なストーリーが脳内で絶賛連載中なので
誰か本にしてわたしにください。