甘い酩酊


「ただいまー」
声をかけながら宿の部屋に戻ると、奥からリンナが駆け寄ってきた。
「お疲れさまでした、殿下」
笑顔で出迎えられたことに少し気恥ずかしさを覚えながら、ベルカもああ、と笑って答えた。

「申し訳ありません、殿下。このような雑用を……」
「いいって、気にすんなよ。一応、『メイド』なんだしさ」
今はリンナが正使者、エーコが御者、ベルカ──マリーベルがメイドということになっている。
自分たちだけの中だとリンナが色んな雑事をこなしているが、他人の目があるところではマリーベルが動かなければ不自然に映ってしまう。
必然的に、ベルカが色々と働くことが増えていた。

「あーでも腹減ったなー」
夕食は既に摂っているが、バタバタと走り回っていたらすっかり消化されてしまったようだ。
「では、宿の者に何か頼んでまいります。少々お待ちください」
食事を頼むくらいなら私が行っても大丈夫でしょう、と笑って、リンナは部屋を出て行った。

応接間に入ると、いつも通りというか、エーコとシャムロックが酒盛りをしていた。
よくもまあ、こう連日酒を飲んで平気だなと感心すらしてしまう。
特にエーコなどは「ディタの奢りだから~」と、ここぞとばかりに高い酒ばかりを頼んでいる。
街に着くたびに泊まる部屋も、いつも最上級のスイートだ。
部屋数もさることながら、調度品もいかにも高級そうなものばかり。
さぞ宿泊費は値が張るだろうと、それくらいのことはベルカでも分かる。
アルロン伯に良い感情はもちろんないが、さすがにここまで来ると若干気の毒に思えてくる。

「おい、おまえら、少しは控えとけよ……」
ため息をつきながら言ってみるが、どうせ無駄だろう。
喉が渇いたな……とテーブルの上を見ると、手を付けられていない水があった。
声をかけてからにしようかと思ったが出来上がっている酔っ払いじゃ聞きもしないだろうと、そのまま水の入ったグラスを取ると、一気に飲み干した。





食事のことを伝えて部屋に戻ってきたリンナは、応接間に足を踏み入れた瞬間に背筋に冷たいものが走った。
未だマリーベルの格好をしているベルカが、テーブルの足に凭れてへたり込んでいたからだ。
「殿下!」
何かあったのだろうかと、急いでベルカに駆け寄る。

「殿下、大丈夫ですか!」
言いながらベルカの肩を掴むと、ベルカが顔を上げる。
その頬は赤く染まり、瞳はどことなくトロンとしている。
傍に空のグラスが落ちているのを見つけ、もしや……とエーコの方を振り返る。
「エーコ殿、このグラスは……」
「グラス……? あーそれ、このお酒だねぇ……。あれ、ベルカいつの間に飲んじゃったの?」
ふにゃふにゃとした笑顔で首を傾げるエーコに、リンナは小さくため息をついた。

おそらく、喉が渇いたベルカが水と間違えてこの酒を飲んでしまったのだろう。
エーコが指した酒は、確かかなり強いものだ。
それを、空きっ腹に入れてしまっては、酔わない方がどうかしている。

ベルカをこのままにしておくわけにはいかず、ひとまず声をかけてからベルカを抱き上げる。
普段のベルカなら嫌がるところだろうが、すっかり力が抜けているベルカはされるがままだ。
「リンナァ……腹減ったぁ……」
酒に酔ってなお空腹を訴えるベルカが可愛く思えて、リンナはクスリと笑う。
「食事は頼んであります。……召し上がりますか?」
「食う……」
言いながら、ベルカはリンナの服をギュッと掴む。

いくら酔っているとはいえ、この仕草は少々可愛すぎないだろうか。
ましてや、今はマリーベルの姿なのだ。
抱き上げているだけでも心臓が早鐘を打つ勢いだというのに、あまりこの状況で可愛らしい言動は控えてほしいところだ。

自制心を何とか稼動させつつ、リンナは隣の寝室にベルカを運ぶ。
応接間ほど立派な応接セットはないが、ここにも小ぶりのテーブルとソファが備え付けられている。
ベルカをソファに座らせると、呼び鈴が鳴った。
食事が運ばれてきたのだろう。
リンナは一旦寝室を出て食事を受け取ると、それをそのままベルカのところまで運ぶ。
テーブルに料理を置き、ベルカに「どうぞ」と声をかけてソファの傍に控えた。

ベルカは嬉しそうに目の前の料理を食べようとするが、酔っ払っているせいか上手くナイフとフォーク、それにスプーンが使えないらしい。
しばらくは悪戦苦闘しながら少しずつ食べていたが、ムー……とでも言いたそうな顔をすると食器を置いた。
「面倒くせえ……。なあ、リンナ」
「はい、何でしょうか」
「食わせてくれよ」
再び持ち上げた食器を差し出され、リンナは一瞬立ち尽くす。

食べさせる。
自分が、ベルカに。

「え、あの、しっ、しかし……」
オロオロと答えるが、見上げてくるベルカの目に逆らえるわけがなかった。
ひとつ大きく深呼吸をすると、リンナは失礼しますと声をかけてベルカの隣に腰掛ける。

普段ならばベルカはこのようなことは言わないのだが、強い酒が思考力を奪っているのかもしれない。
とにかく今は空腹を早く満たすことが最優先になっているのだろう。
とはいえ、ベルカに手ずから食事を与えられる機会などおそらく二度とないだろう。
そう思うと、この状況が少し嬉しい気持ちがあるのも事実だった。

「肉」
端的に要求をするベルカに応え、肉を切り分け、ベルカの口へと運ぶ。
同じようにスープをスプーンで掬い、またパンを手でちぎり、ベルカへと食べさせていく。
パンを口に運んだ時などは、ベルカの唇が指に触れて思わず手を引いてしまい、パンを落としてしまった。
それでも残念そうな顔をしながらも責めたりはしないところが、ベルカらしいとも思う。
もちろん、それに自分が甘えてしまってはいけないのであるが。

そんな風に少し手間取りながらも、何とか殆どの食事を済ませる。
後は、デザートの果物だけだ。
切り分けられている柑橘系のその果物の皮を食べやすいように剥くが、どうしても指が果汁で濡れてしまう。
済んだ後に拭けばいいだろうと、リンナはその果物をベルカへと食べさせていく。

全て食べさせて手を引こうとした瞬間、指に生暖かい感触が触れた。
ぎょっとして見遣ると、ベルカがリンナの指に舌を這わせていた。
指に絡んだ果汁をすべて取ろうとするかのように、ベルカは指を舐めていく。
本来ならばすぐに手を引くべきなのだろうが、リンナは固まったまま動けなくなってしまった。

ベルカは硬直したままのリンナの手を両手で取り、指先から指と指の間に至るまで舐めとっていく。
マリーベルの口から覗く舌と湿った感触に、全身の体温が上がっていく。
目が離せない。心臓の鼓動がうるさく耳に響く。
手を引くことも視線を逸らすことも出来ず、ただその様を見つめる。

不意にベルカの視線が上がり、リンナのそれとぶつかる。
酒に酔ってどこか潤んだ瞳。濡れた唇。そこから覗く赤い舌。
鼓動が、ひときわ強く跳ねた。



思わずその手を強く引き、腕の中に抱き込んで口付けた。
自分が何をしているのか、考える余裕などなかった。
夢中で唇を吸いながら、体重をかけてソファに押し倒す。

「ん……ふっ……」
口付けの合間に漏れる息遣いも、どこか甘く聞こえてリンナの聴覚を侵していく。
何も考えられなかった。
腕の中の存在があまりにも愛しく、ただひたすらに求める気持ちだけが膨らんでいく。



そのとき、扉の向こうからひときわ大きな笑い声が聞こえた。
ハッと意識が引き摺られ、思考が戻ってくる。
そうして今の自分が何をしているのかを悟り、大きく身体を震わせた。

自分は、何をした?
忠誠を誓い、もっとも守るべき人に何をしているのか。

身体を起こし、呆然と目の前のベルカを見遣る。
そこにいたのは、ソファに横たわったままぼんやりとした目で離れていったリンナを見つめているマリーベル。
メイド服のスカートが乱れているのが目に入り、リンナの頬にカッと朱が走る。
急いでスカートを整え、触れることに若干のためらいを感じながらもベルカの身体を起こす。

「で、殿下……あ……その、も、申し訳ございません……!」
ソファを下り、床に膝をついて精一杯頭を下げる。
「このような…………謝罪などで許されることではありませんが……」
顔を上げられない。ベルカの表情を見るのが怖かった。
「本当に……申し訳ありませんでした……」
頭が床に着きそうなほどに、ひたすら謝罪を繰り返す。

「リンナ……」
名を呼ばれ、ビクリと身体を震わせる。
覚悟を決めて、そろそろと顔を上げる。
すると、ソファから下りようとしたのか、ベルカの身体が崩れ落ちるように前に揺らいだ。
「殿下!」
慌てて手を伸ばし、ベルカを受け止める。

「殿下、大丈夫ですか!?」
「んー……リンナ……」
「は、はい……」
どんな言葉が続くのかという恐怖心を押し隠し、リンナは返事をする。
「あんま……気にすんな……なんか、気持ち良かった……し……」
消え入りそうな声はすぐに途切れ、リンナはそっとベルカの顔を覗き込む。

ベルカは、リンナの腕の中ですぅすぅと寝息を立てていた。
酒が入っている上に食事で満腹になり、急激に眠気が襲ったのだろう。
張り詰めていた神経が、一気に緩む。
そのまま倒れ込んでしまいそうで、しかしベルカをベッドに寝かせなければと首を振る。

リンナはそっとベルカを抱き上げると、ベッドへゆっくりと下ろした。
本当はちゃんと夜着で眠った方が楽だとは思うのだが、だからといって自分が着替えさせるわけにもいかない。

明日目覚めたとき、ベルカは今夜のことを覚えているだろうか。
覚えているかもしれない。覚えていないかもしれない。
しかし、どちらにしてもベルカが素面のときにきちんと改めて謝罪しなければと思う。
もしも忘れていたとしても、これ幸いとなかったことにするなど、そんな卑怯な真似は出来ない。
その結果、ベルカがリンナにどんな判断を下しても、それを受け止めよう。

「気持ち良かった」と言ったベルカ。
けれどそれは、酒に酔ってまともな判断力が失われている状態での言葉だ。
嘘ではなくても、真実の全てでもない。
それでも、その言葉が…………嬉しかった。

「殿下……」
安らかに寝息を立てるベルカを見つめながら、リンナは小さく呟く。
どうかしていた、などという言葉で片付けていいことではない。
今夜の自分の行動が決して一時の激情だけではないことを、リンナは知っている。
普段は抑え付けているけれど、リンナの中にずっと渦巻いている欲望。
それが、ベルカの行動をきっかけに溢れ出してしまった。

二度と、こんな失態を犯してはならない。
ベルカが許してくれたとしても、その優しさに甘えきってはいけない。
今夜のことを、自分の戒めにしなければ。



唇の感触が、今もまだ残っている気がする。
きっと、最初で最後の口付け。
この口付けを覚えておくことだけなら、許してもらえるだろうか。



リンナはベルカに毛布を着せ掛けるとその傍に跪き、誓いを立てるように目を閉じた。

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3月18日が私の誕生日だったのですけれども…!
こんな、素敵な…! おはなしを、書いていただきまして…!! わたしは、わたしは…!!
千冬さんとこのお話はいつもニヤニヤきゅんきゅんしながら読ませていただいているのですが
ストイックさで有名な! あの! 千冬さんちのリンナが!!!
ベルカ王子殿下の魅力の前に!!!! 陥 落 ! ! ! ! !
…もう、心臓を撃ち抜かれましたね…
そこまでは読んでいてにやにやきゅんきゅんごろんごろんだったのが
こう、ガッタァァァンでじたんばたんです。
……字書きを名乗ってる癖に日本語不自由ですみません……。
互いに想い合っているのにすれ違うふたりがたまりません。双方向片想い大好物すぎて…

まさかうちのサイトにいらしてくださっている方が
千冬さんのサイトをご存知ないとは思えませんけ れ ど、も…!

素敵なお話たくさん!
「甘い酩酊」翌朝のベルカ視点のお話も読める!!
千冬さんのサイトはこちらです!!!