教育(前編)



「あいつは清く正しい王子様に育っちまったからなあ。こんな本を渡したら怒りだしかねない」
 育て方を間違えた、という表現に苦笑する。
「いや、真面目な話、清濁合わせ呑むってのは重要なことだ。建前だけで国は治められんしな……。第一、知識の一つもなく、『この令嬢と結婚しなさい』なんて言われても悲劇しか生まないだろう」
 宮廷に上がる女というのは大体にして噂好きな上、ほぼ全員、暇を持て余している。
 オルセリートが[下手]だった、等という噂が流布してしまう可能性も、皆無とは言えない。そしてもしそれが現実になれば、噂の感染力というのは大病禍すらしのぐだろう。

「お前らくらいの年で興味を持つのは自然なことだし、それがいけないことだなんてねじ曲げる方が不健全だ。まあ、場所と状況は選ぶべきだがなあ。……それに常に適度に刺激を与えておかねーと、いざって時にあっと言う間にイっちまったり勃たなかったりして、自分も楽しめないし、相手も楽しませられない事もある」
 いざ生身の女を抱くとき、自分が王太子やら王子だからって理由だけで脚開かれてもつまらないだろ。そんなことを言うと笑みを浮かべ、ヘクトルはベルカに一冊の本を渡した。
「そんな不純な動機じゃなくて、心から好いてくれたりシたいって思ってくれてる相手とすると本当に気持ちいいんだぜー。ま、ベルカにはちょっとまだ早いかもしれないから、お前はとりあえずこれ使っとけ」
 俺の見立てだ。絶対気に入る。という言葉に、疑念はなかった。


***


 初めて入ったヘクトルの書斎。久しぶりに触れた兄の痕跡。ふと、その時の会話が思い出された。
「なあ、リンナ」
「見つかりましたか?」
 いや、と首を振ってこたえる。
 そのまま、口に上らせかけた言葉も飲み込んだ。
「殿下? どうかなさいましたか?」
「……いや、何でもねー。あ、こっちの棚まだ探してないよな」

 兄との会話を思い出し、ふと先日のリンナの言葉に思いを馳せたのだった。
 自分のためならば、命など惜しくないと、造作もないことのように言い切った。
 命というのは、そんなに軽いものだったろうか?
 それとも、リンナは自分自身に、そんな重さを見出しているというのだろうか?

『お前は、俺が王子だからついてくるのか?』

 そんな事を訊ける訳がない。
 肯定されれば、ショックを受けるかもしれない。
 かといって、例えば
『マリーベルだからです!』
 と言われてしまっても、どうしたらいいわからない。
 だいたいマリーベルなんて本当はいない人間だ。世を忍ぶ仮の姿……などと言えば聞こえはいいが、要はただの女装だ。
 地位もお金も勲章もままならない自分に、なにを見出し、なにを期待して、ついてくる等と言ったのか。
 リンナが望むものならば何を差し出してもいいという心持ちだったが、それすらも思うようにはいかない。
[王子であること]
[マリーベル、であること]
 実体のない建前と、嘘と、おそらくは幻想。
 ただの[ベルカ]が入る余地が、そこにはあるのだろうか?
 そんなことを考えていると、きりがなくなってくる。息をひとつついて、本の捜索を再開した。


***


『おまえは、マリーベルを抱きたいのか?』

 訊けない問いが、もうひとつ。
 いや、答えは最初からわかっている。
 何しろ自分を、女装した男だと知らず[買おうと]したのだ。娼館で買った女とすることなど、基本的にひとつだけだ。
 だが、今でもそうなのか?
 中身が自分だと知って以降も、例えばこうして城に戻ってくるためメイドの装束を纏ったとき。リンナは妙に嬉しそうだった。懐かしい感じがするとさえ言った。ほんのひとときを過ごしただけなのに。

「お前は、俺の中に何を見ているんだ……?」
 相手のいない問いかけは、ただ静かに空気に溶けた。
 もやもやした気持ちを抱えたまま、先ほど拝借してきた本に手を伸ばした。
 あまり気分じゃないと思ったのも最初だけ。ヘクトルがおすすめというだけあり、それらは着実にベルカのツボを突いていった。
「おお……これは、なかなか……」

 内容に没頭しだした頃、扉がノックされたのであった。


 オルセリート、ヘクトルだけじゃない。
 エーコも、そして目の前にいるリンナの真意もわからない。
 他人のことだけではない。自分自身が何を考えているのか──どうしたいのか。今はそれすらも。
 以前はどうしていたっけ?
 ──ああ。どうせ適わぬ希望なら、持っているほうが苦しいと、切り捨ててしまっていたんだった。今までだって簡単に出来ていたことだ。これからだって、きっと。
 でも、そういえば……、自分にこんな風に感情をぶつけてきてくれる人は、初めてだ。


「あとひとつだけ頼みがあるんだが、いいか?」


 夕飯の後、半刻。
 約束の時間どおり、リンナはその部屋のドアを叩いた。
 ノックして返事がなければ勝手に入れという指示の通り、それでも「失礼します」と声はかけてドアを開いた。
 薄闇の纏わりつく部屋、指示されていた通りに鍵をかける。
「殿下……?」
 徐々に闇に目が慣れる。そこにあったのは寝台。そして──。予想だにしなかった光景に息を呑む。ベルカが伏せていた目を上げ、視線をリンナのそれと絡ませた。
「衛士さま……」
 互いの吐息まで聞き取れるような静寂の中、僅かに震える声。
 すぐにでも抱きしめたい衝動を押さえ込み、リンナは寝台の前に膝をついた。
「お、おそれながら殿下、これはいったい、どういう……?」
 眼前の[マリーベル]は、ひとりでも着られるゆったりとした、ドレープのあるドレスを纏って寝台の上に腰掛けている。手を伸ばし、ひざまづいたリンナの頬に触れた。まるで、誘うかのように。
「マリーベルとは呼んでくださいませんの……?」
 もう片方の手でも触れられ、両頬を挟まれてぐっと顔を近づけられる。鼓動は自分の耳ではっきり聞き取れるほどの騒々しさで血液を巡らせ、全身の体温が上昇するのがわかった。
 吐息が肌をくすぐる。
 額に触れられるだけの口付けを落とされ、リンナの理性の箍がついに弾けた。
 寝台の上の[マリーベル]を抱きしめると、勢い余って押し倒す格好になった。が、腕の中で身を固くした[マリーベル]の唇に触れかけた刹那、動きを止めた。
「マリーベル…いえ、殿下…」
 体勢はそのまま、苦しげな表情で[マリーベル]を見下ろす。
「どういう、ことでしょうか…」
 弾んだふたりの吐息だけが響く静寂を破ったのは、ベルカの方だった。
「おまえ…[マリーベル]が好きだろ。だから…」
 兄が残したトト・ヘッツェンの1冊。リンナが「似ている」と言った話。
 その中でヒロインがしたのと同じ、拙い誘惑。
「やっぱり物語みてーにはいかねえな。悪い、リンナ」
 纏っていた嘘の仮面を、一枚剥ぎとった。

「あの…殿下、その…申し訳ありません…」
 こんなふうに色仕掛けに惑わされるなど、と目を伏せる。
「おまえが謝ることじゃねーよ。俺のほうこそ…なんつーか、お前の心を弄ぶみてーなことしちまったな…」
「そもそも、何故…このような?」
 ばつが悪そうに床に正座していたリンナを寝台に座らせ、ベルカはウィッグを外した。
「…おまえに、何かしてやれねーかなって思ってさ。俺は何も持ってねーし、明日以降はもう会えるかどうかもわからねーから、今夜…って。でもそーだよな。見かけはお前の好みでも、中身は俺だもんな…」
 考えが浅かった、悪かった、という言葉に、リンナは一瞬、言葉を詰まらせた。
「──私には、そのお気持ちだけで十分です。ありがとうございます」
 そういう配慮をしてくれたと思うだけで、この想いを抱えて生きていける。たとえ、この先会えなかったとしても、主はベルカひとり。そう決めた。

 微妙にすれ違ったまま、それでも2人は寄り添って座っていた。

「俺、さ」
 ふと、ベルカが呟いた。
「結構、覚悟…してたんだぜ」
 バカだよな、と自嘲する。そこに至り、リンナは漸くベルカの本意を悟った。
 

    続く BACK