教育(中編)



 いったい、何が起きているのか、まったくわからなかった。ベルカに呼ばれた先に、[マリーベル]が裾を乱し、寝台に座しているなど、予想だにしなかった。

 ようやくその意図に思い至り、リンナは悔恨の念に襲われた。
 信頼……忠誠が足りないのは自分の方だ。私は、殿下のお気持ちをきちんと把握できていなかったんですね……。
 そんな思いを振り払うと、ようやくひとつの答えが出た。大きく深呼吸をして、彼は意を決した。
「殿下……その、抱き、しめさせていただいても……?」
 たどたどしいその言葉が、余計に羞恥を煽る。
「んな……っ、こと、いちいち訊いてたら、許さねぇ……」
 女のようにやわらかではない、しかし成長しきってはおらず、幼さと華奢さを残した少年との抱擁。簡素なドレスを着ているとはいえ、骨格からして明らかに男の身体なのだが、心身の高揚は抑えきれなかった。

 鎖骨のあたりにひんやりと固い金具が触れ、ベルカはほんの少し眉を寄せた。
「なあ。おまえさ、脱げよソレ」
 せめて上着だけでも。
 ベルカの言葉に頷き、半袖の上衣とカフスを外し、今度は先ほどよりは自然な動作で抱き寄せた。


 シャツと自身の纏う柔らかくて薄いドレス越に、じんわりと体温が伝わる。
「おまえってさ、あったけーよな」
 ぎこちない抱擁。頭を胸に預けると、心臓が勢いよく強く拍動している音が聞こえた。
 緊張しているのは自分だけはないという事実に、いっぱいいっぱいだったベルカの心にほんの少しの余裕が生まれた。
「おまえさ……なんつーか、その、中身が俺だってわかってても、好きなのか? [マリーベル]が……」
 
「殿下が……あなた様がマリーベルであってよかったと思っておりますし、また、王子殿下であることは大変、その……武官として生きていた身としては、お側でお仕え出来る事は大変光栄で、その、喜ばしいと思います。あなた様があなた様でなければ、きっとこうして、ここまで供をする理由は見つからなかったでしょう」
 きっかけがなければ、出会うこともなかった。
 ベルカが王子という立場でなければ、アルロン伯の屋敷からついてきて、一緒にいられる根拠も見出せなかったかもしれない。
 しかし、「ベルカはマリーベルだから」「ベルカは王子だから」そんな理由だけで、自分はここにこうしている訳ではない。
 だから、その真意に気づいた時、彼の気遣いに喜びとともに痛みを覚えたのだ。
 もちろん、理由などなくても、出会うことはあったかもしれない。
 一緒にいられたかもしれない。
 だが、それらはただの仮定であり、現実は現実だ。
 [マリーベル]の正体がベルカであること、ベルカが王子であること。そしてそれらの要素、ほかの要素、すべてを内包したベルカ自身が、眼前のベルカであること。
 ベルカに出会って初めて知ったのだ。魂が惹かれる、という感覚を。
 だが、どうしたらそれを伝えられるだろう? 自分自身でさえはかりかね、持て余しているきらいのある、感情というものを。
「率直に申し上げますと……私は殿下を、あなた様をお慕い申し上げております」
 忠誠だけでなく、思慕。恋慕といってしまって差し支えない程度の思いを抱いております。


 リンナの言葉はとてもまっすぐで、それはベルカの心を貫いた。
 柔らかな檻の中、形式、いや名ばかりの王子として育てられ、周囲は表から裏が透けて見える大人たちばかりで、自分自身もすっかりスレてしまった。なのに。
「なんで……だよ……」
 翡翠のようなみどりいろを湛えた目は澄みきっており、疑いの余地はなかった。
 その瞳に陰が差す。
「申し訳ありません……忠誠を尽くし、お仕えする相手にこのような邪念を……」
 邪念? いや、違う。
 確かに性的な物事は邪であるといわれるきらいがあり、じめっとして暗いイメージが付き物だ。
 しかし、リンナのそれには暗いところなど無く、むしろやわらかな春の日差しのような明るさとあたたかさがあった。
 だから、もう一歩を踏み出せた。


  ドレスは着たままの方がいいか? 等と問われたが、それは固辞した。自分はマリーベルではなく、ベルカ自身を求めているのだと明示したかったのだ。

 薄闇の部屋で、生まれたままの姿をしたベルカが、寝台に身を横たえている。顔は、見るなと言わんばかりに片腕で覆って。
 ふたりの吐息と鼓動が混じる。

「そ、その……では失礼して、ご、ご奉仕を……させていただきます」
 少年時代、公衆浴場でふざけて友達と大きさを比べあった程度の経験はあるが、他者のそれに触れる機会など無かった。
 ベルカのものはこの非日常的な状況に対する興奮からか既に半勃起状態で、リンナが手のひらを添えるようにすくいあげるとたちまちに硬度を増した。逡巡の後、娼妓がするように唇を寄せた。嫌悪感はなかった。
 先端を掠める吐息にベルカは微かに身を震わせた。口腔に含まれるに至り、制止の声をあげる。

「ふわ……っちょ、リンナ、ちょ、待て!」
 その言葉に、弾かれたようにベルカのものを解放した。
「も、もしや歯が当たってしまいましたでしょうか? ご不快でしたか?」
 焦って居住まいを正したリンナだが手を振ってそれを否定する。

「その、さ……そうじゃなくて、それじゃおまえが気持ちよくなれねーだろ。女にするみてーに、出来る…んだろ……?」
 強く勧められこそしなかったものの、ヘクトルが持っていた蔵書の一冊に、その記述があった。すなわち、男同士の性行為に関するもの。
 そういう世界もあると知ったが、あまり興味は惹かれなかった。きちんと読んでおくのだったと後悔しても遅い。

「それ、は……」
 自分のものが、ベルカに飲み込まれている様子を想像する。全身の細胞が活性化するような高揚を覚えた。

 知識がほとんどないのはリンナも同様だった。
 アゼルプラードには、特に男色を禁ずる法はない。
 が、多くは自然と異性に惹かれる。
 リンナ自身、マリーベルのことはさておき、異性に惹かれ、交際した経験はある。相手のいない、人肌の恋しい宵には、娼館で娼妓を買ったことも。
 男女の行為の手順であれば、まあ人並みには知識も経験もあるといってよいだろう。
 だが、まさか自分が少年に惹かれるなどと、思ってもみなかった。
 きっかけとなったのは女装をしていた時であったが、中身を知ってから尚、惹かれ続けるとは。
 何が必要でどうするべきなのか。どうすればいいのか。
 いっさいの経験が通用しない。なにもかもがわからない。
 いや、ひとつだけわかる事があった。
 自分はベルカを求めている、ということ。
 そしてベルカも、それを受け入れてくれている、受け入れようとしてくれている。ということ。
 

    続く BACK